2017年1月31日火曜日

トランプとイスラエル、ユダヤとアメリカ

アメリカはユダヤ金融資本が支配する国であると言われる。
一部での理解なのか一般的に言われていることなのかわからないが、そういう側面があることは事実だろうと思う。

トランプは共和党の鬼っ子であり、民主党の敵、メディアの敵となっている。
トランプと共和党の関係性は複雑で外部からはなかなかわかりにくい。

わかりにくいと言うと、トランプ政権のユダヤ、イスラエルへのスタンスもわかりにくい。

トランプの娘婿クシュナーは優秀なユダヤ人であり、トランプの絶大な信頼を得ていると言われる。
メディアやトランプの敵対者も彼の悪口は口にしない。
あまり本人が発言する場面を目にしていないので過度な期待はできないが、確かに理知的な存在感のある人物だ。
一方で、もうひとりトランプの最側近とも言われるバノンが運営していたネットメディアは反ユダヤ主義で知られていると言う。

トランプ自身はイスラエル支持の姿勢を明確にしているように見えるが、この2人を最側近として用いるのはどこか不思議な気がしてしまう。

また、メディアはユダヤ金融資本の意向を拡散する存在と言われている。
これも一般的な理解なのか自信がないが、グローバリズム、国境の破壊と彼らに都合のよい世界基準の拡散、の尖兵としてジャーナリズムが果たしている役割の大きさは疑いの余地がないように思う。
オバマ政権はイスラエルにはあまりいい顔をせずにイランと核合意を結んだ一方で、メディアとは良好な関係を続けた。
トランプ政権はイスラエル贔屓を露骨に示し、イランには厳しい。そしてメディアとは仲が最悪だ。

こういった現象を見ていると、表層的な理解であることは重々承知であるが、何だかねじれのような気がしてしまう。
ユダヤ人を漠然と一括りに見てしまうのが間違いなのだろうか。
ユダヤ金融資本とイスラエルは必ずしも利益を等しくしていないということだろうか。
何から読めばいいのかよく分からないが、問題意識を持って少し調べてみたいテーマ。
きっと勉強したら恥ずかしくなるような無理解に満ちているだろうけれど、今の無垢な感覚も大事かもしれないと思って書き記してみた。

2017年1月29日日曜日

リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムのことは嫌いにならないでください―井上達夫

色々と示唆に富んだ本だった。
内容も、もっとメタ的に、学者の社会における存在についても。
この本で受けた知的刺激を咀嚼して消化、吸収するのにはしばらく時間がかかりそうなので、ゆっくりと寝かしつつ向き合っていこうと思う。

ただ、御厨貴にしても井上達夫にしても、理性的なはずの学者が安倍政権による日本の右傾化、などと朝日新聞や海外リベラル紙のプロパガンダのようなことを、真面目な顔をして不安を煽る言葉を口にするのは違和感がぬぐえない。
左傾化のときには取り立てて不安を口にしていなかったように思うが、なぜ殊更に右傾化を騒ぎ立てるのか、そもそも右傾化しているのかという議論はとりあえずスキップして、ここの心情がいまひとつ理解できないので彼らに共感することが難しい。
世界情勢を見れば安倍政権がいかに右傾化したところで、すぐに戦争に突入するはずもなく、一体何を恐れ、何と戦っているのか、滑稽な独り相撲に見えてしまう。
こういうことを口にしていると、そのうち私も右翼扱いされてしまうのだろうか。

2017年1月28日土曜日

ニーチェの言葉

少し前に流行った本。
「超訳ニーチェの言葉」を改めて手に取った。
ニーチェが優れた思想家だというのは、彼がどこか自分を離れて第三者的な目線で語ることが可能だったからだろうかと思った。
伝えられている彼の晩年は決して幸せなものと言えないが、彼のような優れた思想家を蝕んだのは何だったのだろう。

ひとつ言葉を引用しておく。

だまされた人の悲しみ
あなたが誰かをだましたりすると、その人は悲しむ。
だまされたことで何か損を受けたから、その人は悲しんでいるのではない。
その人がもうあなたを信じ続けられないとうことが、その人を深く悲しませているのだ。
今までのようにあなたをずっと信じていたかったからこそ、悲しみはより深くなるのだ。
「善悪の彼岸」

2017年1月27日金曜日

男女のこと

あまり深入りするつもりはないけれど、覚え書。

最近、相次いで女性の書く赤裸々な文章に触れて色々と衝撃を受けた。
・文月悠光「洗礼ダイアリー」「適切な世界の適切ならざる私」
・佐野洋子・西原理恵子・リリーフランキー「佐野洋子対談集 人生のきほん」
・山口果林「安部公房とわたし」
TLで話題になっていた本で未読だが「夫のちんぽが入らない」という本もあった。
これも女性の著作。(当たり前か)

文月悠光の文章の繊細さはどこか自分の内面を強く刺激した。
多分感性が自分によく似ていて、追体験していると何だか重なり合うような錯覚に陥るのだと思う。
まだ若い詩人が今後も伸び伸びと飛翔していくことを期待したい。
彼女の語る幼少期からのエピソードは共感する部分も感心する部分もあって、とても親しみを感じた。

佐野洋子と西原理恵子の対談は私を混乱させた。
余に躊躇なく赤裸々に語られる他人の人生に、自分の心が襲われているかのようでしんどくなった。
随分と大胆に強烈に自分の人生を能動的に生きている人だと思った。
強烈すぎて、後に収録されているリリーフランキーとの対談はほとんど印象に残らなかった。

山口果林のことはこの本を目にするまで知らなかった。
てっきり若い奥方が著したものと思って読み始めたら、妻帯者と年若い恋人の関係だと知って少し呆れた。
妻と恋人の関係は複雑なものだと思った。
勿論ここに描かれているのはあくまで一方的な見方でしかないわけだが。
関係の露見にショックを受けつつも、その後、自分と安部の関係がなかったかのように扱われたことに不満を抱くなど、微妙な気持ちも赤裸々に綴られていて面白いと思った。
おそらくこの本を世に問うことを通じて自分の人生に一区切りをつけたかったのだろう。
男女の関係というのは後まで尾を引くものだと思った。

村上春樹のロングインタビューを「考える人」2010年夏号で読んだ。
自身の著作について大分踏み込んで発言していて興味深かった。
特に河合隼雄への傾倒や日本に対する複雑な思いの吐露には意外な部分と納得する部分があった。
ただ女性に関して、小説を書いているうちに段々わかってきたと自信を覗かせる部分があって、そこは少し胡散臭いな、と思った。
彼の中での女性理解が深まったとして、本当にそれは生身の女性理解なのだろうか、と。

男性、女性、と言ってもそれこそ星の数ほどの人間が暮らすこの星で、確たる理解はどうしても不可能で、男が女に、女が男に抱く幻想を打ち破ることは不可能だと思う。
けれど、せめて共に人生を過ごす人々のことは男女の壁を越えて人として理解していきたいと思うが、それすら大それたことなのだろうか。

男女を区分しすぎる議論も、男女の別を無視した議論も間違っていることは体感されるけれど、何がふさわしいかは判断が難しい。
切っても切り離せない人間の性について否応なく考えさせられた一連の読書体験だった。

2017年1月25日水曜日

清らかな厭世―阿久悠

前々から、阿久悠が好きだった。
と言っても、世代もあって彼の歌が取り立てて好きだったというわけではない。
先に彼の書く文章が好きになって、後から彼が高名な作詞家としての顔を持つことを知った。

彼の書く文章に最初に触れたのは、産経新聞のコラムだったと思う。
素朴な、飾らない言葉で自分の思いを語る感じが、あまり当時の知識人にない実直さを感じさせて、すぐに好きになった。
彼が死んで、早いものでもう10年が経とうとしている。

最近改めて、阿久悠の遺作とも呼べるこの本を読み返している。
力強い言葉が並んでいて感銘を受けるとともに、彼の強い危機感の滲む言葉にはっとする瞬間がある。
サブタイトルは‟言葉を失くした日本人へ”となっている。
日本人は沈黙の美徳を捨てて、欧米的な主張する姿勢を手に入れた。
しかしそこで語られる言葉は空転するばかりで、言葉の重みが失われてはいないか。
そんな問いを投げかけられているように感じたが、私には彼に返す言葉が未だ思い当たらない。

阿久悠オフィシャル
http://www.aqqq.co.jp/index.html
清らかな厭世
http://www.aqqq.co.jp/top_news/kiyorakana.html

2017年1月23日月曜日

言葉の変化と正確さ

言葉について、乱れや変化が指摘される一方で、細かいことを気にするなとばかりに堂々と言葉は変化するものだと主張する人もいる。
言葉の専門家の中にもそういう人はいて、紅白の際に少し話題になった辞書編纂者もそのような立場のようで少し驚いた。
そういうものなのか、と思う一方で、どんな変化も許容するという姿勢は一見寛容に見えて実はただ堕落を黙認しているだけではないかと一抹の不安を覚える。
というのも、英国においてクイーンズ・イングリッシュに相応しくないと判断された言葉が指定されたといったニュースを海外メディアを通して聞いたことがあるからだ。
フランスも言葉については色々とうるさい国だ。
日本は日本、他所は他所だが、日本語はこのままでよいのだろうかと少し気になった。

さて、ことば一般についてはそのような変化に任せるという立場も成立するようだが、専門用語については時代による変遷にはもう少し気をつけるべきではないのではないだろうか。
法律用語はずっと一貫して使われてこそ過去から今に至る法律秩序の変遷を正しく理解することができるもので、そうした用語についてはかちっと定義を決めてそれに沿って使うのがふさわしいと思う。
しかし近年、それも緩んできているような印象があって困惑している。

「冤罪」とは無実であるのに犯罪者として扱われることを指す。
痴漢冤罪などが有名になった。
これは、刑法分野の領域の話であって、これを民事領域で用いるのは少々困ったことに感じる。

先の三浦九段のソフト使用疑惑に関して、ジャーナリストは我先にと三浦九段の「冤罪」を言い募る。
しかし、そもそも冤罪が成立するためには刑法の裁判を経て一度犯罪者として認定されることが必要であって、将棋連盟内部での処分、それも当初の発表では三浦九段が休場届を提出しないがゆえの処分とされたもの、に関して「冤罪」も何もないはずである。
また、第三者委員会の報告書も三浦九段の「潔白」を証明したものと扱われているが、そうだろうか。
三浦九段の不正の証拠が見つからなかったという中身なのであれば、それは三浦九段が確実に不正をしていないこと=「潔白」の証明がなされたとは言えないはずだ。
そもそも「潔白」の証明など法律のレベルでも難しく字義通りの意味での証明は不可能なものだと思うが。

どうも言葉遣いが安易に思われる記事が多い。
細かい話だが、細部に神は宿る、とも言う。
細かい誤りを一つ一つ積み上げていくことで、世紀の大誤報が生まれることも忘れてはならない。
ジャーナリズムには、自分の都合で恣意的に言葉を選択することを控えて客観的な報道に徹することを期待したい。
ただでさえ感情的な脊髄反射の時代と言われる中で、殊更にジャーナリストの側が感情を煽る報道姿勢には感心しない。
気に食わない人や物を皆でよってたかって批判し、その逆は一斉に賛美する。
今の風潮にはどこか安易な全体主義的な空気を感じる。
右翼と全体主義が結び付いて戦前の熱狂が生まれたが、反体制と全体主義の結びつきは何をもたらすだろうか。
無為な破壊のあとで呆然と佇む人々の嘆きの声が聞こえてくる気がしてならない。

2017年1月22日日曜日

陽気な子供が世界を回す

象徴的なことがあった。
トランプ大統領、当時はまだ次期大統領候補だったが、に対してバイデンが大人になれと言ったと報道されたのだ。
大人。また論争的な言葉を選んでコメントしたものだ、と溜息をついた。
大人って何だろう。
日本では元々20歳になれば、最近は18歳になれば、大人として一人前だと扱われる。
もっと前には元服と言って15歳頃(11-17歳)になれば大人と見做された。
みなす、という言葉からもわかるように、年齢で急に大人らしさが身につくわけでも何でもない。
扱いにくいから年齢で切ってそれ以下は未熟な子供、それ以降は成熟した大人、と割り切って定めているに過ぎない。
それはアメリカでもどこでも、同じことだろう。

だから、現にバイデンの属した民主党政権はお子様ばかりの夢想家の集まりだった。
オバマ政権を見直す動きが世界的に広がっているようだが、不思議なことだ。
世界の警察官を降りると、問わず語りに宣言して、中国やロシアに誤ったシグナルを送った。
結果として日本やフィリピン、オーストラリアなどアジア太平洋の同盟国を中国の海洋進出の危機に晒し、ウクライナ問題やシリアの内戦ではロシアにしてやられた。
中東紛争をこじらせ、IS(全くもって表記が安定しない)による世界中でのテロ拡散を食い止められなかった。
このような政権を世界の指導国たらんとするアメリカ国民の60%が最終的に支持するなど、正気の沙汰とは思えない。
トランプ大統領はアメリカ第一主義を掲げているが、そちらの方がよほどわかりやすくていい。
世界のためと言って世界の平穏を掻き乱す夢想家の退場を世界は祝福するだろう。

大人。子供の対概念でもあるこの言葉。
そもそも、大人な政治家、指導者、知識人の方が少ないのではないか。
大人とは分別のつく、言ってみればおとなしい人のことだろう。
しかし大人は子供の暴虐の前に、得てして無力だ。
泣く子と地頭には勝てぬ。
この理屈で行くと子供であればあるほど、赤子に近づけば近づくほど強いかのように思える。
現に夢想家オバマの主張は子供っぽいと評されるトランプの前に無力だった。

私は何も、子供大人を礼賛するつもりはない。
トランプはもっと大人な態度を見せるべきだと思うし、オバマももっと現実を見据えて夢を語るべきだったと思う。
また、反トランプ活動にいそしむアメリカ人は地球の恥としか思えない。早く冷静になって民主主義の精神と法令遵守の姿勢を取り戻してほしいと願うし、それは政権のスキャンダルに感情を爆発させている韓国民についても同じだ。
もっと言えば、イスラムの名をかたりテロ行為を繰り返すISが大人になって自らの無謀と無茶に気付いてくれれば、世界は手っ取り早く平穏を取り戻して団結して地球規模の諸問題に取り組めるのではないかと期待する。

しかし、こうした希望は幻に過ぎない。
彼等はこれまで子供のままだったし、これからも子供で在り続けるだろう。
それが一番楽であると同時に、一番賢い態度だと世界が認めてしまっているからだ。
オバマの夢想に対して、正面から、君、そんなことを言っても無駄だよ、もっと大人になれよ、と言った人はどれほどいただろうか。
ほとんどのメディアはそんな苦痛から逃げて、代わりに彼を称賛した。
彼がアメリカを、世界を、彼の夢想通りに変えてくれると本気で信じた人はほとんどいなかったが、無責任に期待をかけた。そして裏切られ、米国には一層の分断が生まれ、世界には更なる混沌、無秩序がはびこった。
トランプについても、構造はさして変わらないように見える。
真摯な批判はほとんどなされず、些末な部分を切り取って面白おかしく批判するか、全面否定で憎悪の声を上げるものばかりが目立つ。

私には昔から、世界が不思議なものとして映った。
大人が真面目な顔をして不合理なことばかりしていることがテレビ画面や新聞の紙面を通して伝わってきた。
しかし、そのことに周りの誰も不満の声を上げない。一部の人がおかしいと声を上げると、支配者側のメディアに袋叩きにされる。
メディアというのは悪いやつらで、この世界で一番権力を持っていて、支配が壊されそうになると徹底的に弾圧するんだな。
子供の自分にも、それだけはよくわかった。

そうして大人になってみると、メディアの支配は綻びどころか気づいたら瀕死のものになっていた。
インターネットの普及がメディアを過去の遺物へと変えてしまった。
日本を貶め、代わりにどうしようもない国々を賛美してきたメディアが亡びるのはいいことだろうと思った。
もっとも、メディアはそれでもなお大きな影響力を持っている。
さらに、これは大人になってから知ったことだが、日本のメディアは世界的にはとんだお子様に過ぎなかった。
親玉はユダヤ資本に牛耳られ、世界中にネットワークを構築して反政府・反国家運動とグローバル化運動を推進する巨大メディアだった。
考えてみればすぐにわかることだが、国を持たない、持たなかったユダヤ人にとって国民国家というのはいまいましくて仕方のないものだろう。
ユダヤ資本のメディアが反体制、反国家主義に堕するのはいわば当然の道理だった。
今のイギリスの欧州連合を離脱して主権国家に立ち戻ろうとする動き、アメリカのアメリカ第一主義をメディアが一大キャンペーンを張って批判するのも、ユダヤ資本が裏についていたことを考えるとそういうものか、と納得してしまう

世界はグローバル化の波に覆われた。
メディアや知識人はそれを肯定的に見るとともに、歴史の必然と説く。
なるほどグローバル化は、人々に概して言えば不幸よりも幸福をもたらしたかもしれない。
見方にもよるが、そのことに関してはメディアにもそうした価値判断を行う自由があろう。
しかし私がわからないのは、それを歴史的必然とまで言い切る欺瞞、傲慢がまかり通ってしまうことの不可思議だ。
端的に言って、この命題は偽だろう。
そもそも歴史に必然などあろうはずもない。
こうして人間が進化の末に誕生したことすら奇跡だ。
その先のことまで神が決めたと断じることなどできるはずがない。
必然とは要するに、全知全能の神が決めたと言い切るのと同じだろう。
日本人として、非キリスト教徒としてこのような考えを歴史に持ち込むことには納得できない。
かつて歴史の必然ということを言い出した学派があった。
マルクス主義者たちだ。
彼らと今のグローバリゼーション礼賛派が同じだとは言いたくないが、何についてもそれを絶対視して憚らなくなったら、学問ではなく信仰ではないか。

話があっちこっち行って言いたいことが半分も書けなかったが、とりあえずここで筆を置くことにする。
思いのほか、思考を思い通りに方向づけて結論まで書ききるというのは難しい。

(追記)
色々と認識が今の自分から見ても稚拙な部分があって、本来であればお蔵入りさせてしまってもいいところ。
細かいことを言い出したら何一つ正確な認識に基づいた言葉は表れていないようにすら思われる。
とは言えいちいち非公開にしていたらきりがないので、表記を一部改めた以外はぼそのままにしてあります。
あくまで執筆時点での見解ということで、ひとつご了承ください。(2017.6.8)

2017年1月21日土曜日

日本の車窓から

個性とは何だろう。久しぶりに乗った車のなか、ふとそんな問いが浮かんだ。
個性は大事なもの。皆さん個性を大切にしましょう。
そんな感じの暗黙ないし明示的な合意があるけれど、個性の中身について語られることは意外と少ない。
個性は人に特有のものだろうか。
動物にも個性はあるだろうか。
ライオンに、個性はあるのだろうか。
ライオンの生態は、メスとオスでは違いが明白だが、オス同士・メス同士での個体差の表れはあまり聞いたことがない。
足の速いライオンは狩りで活躍して王になるかもしれない。
臆病なライオンは狡猾な狩りで名を馳せるかもしれない。
しかし、それは彼らの個性なのだろうか。
身体的特徴、それに付随する当然の帰結、その域を出ないのではないだろうか。
もちろん私が、あるいは人類が知らないだけで、哲学好きのライオンや音楽好きのライオン、様々なライオンがいるのかもしれない。
けれど、人間のように様々な考えを持ち、それを言語で表現し、時に論争し時に共感しあうような動物は地球上に(或いはこの宇宙に)他に在るのだろうか。
もしいるとすれば、独自の言語を持つと噂されるイルカくらいだろうか。

イルカというと、欧米の人々が殊更に好む動物のひとつだ。
なぜ彼らが海豚を好むのか、なぜ彼らが好む動物を独善的に保護しようとするのかわからないが、豚や牛、場合によっては羊や鶏で胃袋を満たす彼らは日本人が鯨を捕まえて食すことに目くじらを立てる。
それもまた、彼らの個性として尊重しなければならないのだろうか。
個性と個性がぶつかりあったとき、強者が弱者を喰いちぎる以外の方策を、実際のところ我々はいまだ見出していない。
個性はいつどのように生まれるのか。
教育による後天的な獲得が大きいのか、生まれつきの才能が大きいのか。
国民性というものが語られるが、それは生得的なものか、或いは後天的なものなのか、いかなる理由で形成されたものなのか。
個性は個人だけでなく、集団、国家レベルでも付きまとう。
違いがあるところ全てに個性が表れるということならば、個性を常に尊重することなど可能なのだろうか。
また、個性に優劣、軽重は存在しないのだろうか。
個性。この2文字で表現されるものと我々はどう向き合っていくべきなのだろう。
車の後部座席で窓の外を見ながら、そんなことをぼんやりと考えていた私もまた、個性的な人間なのだろうか。

(追記)
*Wordで書いたものを貼り付けたら書式やフォントが変になっていたので標準に直しました。その際再読して違和感のある箇所について、一部表現を改めました。

世界の車窓からという番組と、おそらくそのparodyであろう星野源のいのちの車窓からにinspireされた表題だったのだろうと思いますが確証はありません。(2017.6.8)

2017年1月20日金曜日

素人目線はもう沢山

素人目線で政治を語る番組が氾濫して久しい。
放送開始当初はその無知さ加減が新鮮で受け入れられたのだろうが、今となってはなぜ政治を素人が偉そうに語るのか、専門家を差し置いて好き勝手に放言するのか、疑問の声も大きいのではないか。
お笑い芸人に頭がよく感覚が鋭い人が多いのは事実で、そういう人の直言は専門家のぼんやりとした発言よりも胸に響くのは確かだろう。
しかしそれもたまにあるからいいのであって、チャンネルを回してどの局でもお笑い芸人が大きな顔をしていたら辟易してしまう。
民主主義は一歩間違えると衆愚政治に陥りやすい。
現にイギリスの欧州連合離脱やアメリカ大統領選でのトランプ候補の躍進はポピュリズムの表れとして、知識人、メディアには批判的に受け止められた。
日本のメディアもそうした風潮に乗っかって危機感を煽った。
しかし、彼らのやっていることはと言えばポピュリズムそのまま、素人が好き勝手政治に口を出して面白おかしく茶化す番組を量産している。
韓国の政治危機など芸能ニュースと同じ軽さで笑いの肴にしただけだった。
こうした風潮について地上波テレビに期待する方が愚かなもので、顔を赤くして怒りをぶつける気にもならないが、彼らの態度の一貫性のなさは同じ人間として少し気にかかる。
他人の男女のあれこれを散々追いかけまわして、自らの社員の不倫恋愛には臭い物に蓋をするかのように口を噤む。
大衆を扇動してあれこれ勝手なことを言い募る番組で、ポピュリズムの波を前に危機感を口にする。
反体制を公言する(放送法上大丈夫なのかと思うが)報道番組が、大手芸能事務所所属タレントのスキャンダルを黙殺して媚びを売る。
こんなメディアを信用できるのは余程の馬鹿でお人好しだろう。
今人々が求めているのは素人目線の素人ではない。
素人目線で語ることの出来る専門家の叡智だろう。

2017年1月17日火曜日

トランプのアメリカ

アメリカ人に対する疑問。それを以前の記事で述べた。
あれはアメリカ人の認識、内面に注目するものだった。
ここでは、もう少し視野を広げて構造的な部分にも目配りしつつ疑問を挙げていきたい。
あまり学術的でもジャーナリスティックでもない素人っぽい文章になると思うが、お付き合いいただけるとありがたい。
1.トランプ陣営への疑問
・対中政策
対中政策の全体像はどのようなものになるのか。
経済政策を中心に据えて交渉の材料として何でも使うビジネスマンスタイル。
台湾総統との電話会談やひとつの中国の方針転換の示唆はその一環。
そういうとらえ方が日本では主流のようだが、その理解は正しいか。
対中封じ込めに言及した閣僚がいるとか、対中貿易赤字をトランプが重く見ているとか、為替操作国批判や、南シナ海の海洋進出、台湾、などとどう向き合うのか
・保護主義なのか違うのか
保護主義と評して懸念する声が上がっている。
関税の件とメキシコの壁の件が要因か。
実際、保護主義なのかどうか。批判にどう応えるのか。(経済重視姿勢から単なる保護主義とは思えない)
・移民政策
不法移民対策で犯罪歴のある移民の送還とこれ以上の不法移民の流入防止に言及。
これに対して批判が強いのは自由を愛する移民の国だから?
不法移民が数の力で一定の正統性を獲得してしまったから?
不法移民擁護の声がこれほど強く、この程度の主張が排外主義扱いされてしまうアメリカに住む保守的な人々が不憫で仕方ない。
似たような移民問題はドイツをはじめ欧米各国でも生じているが、さすがに不法移民ではなく合法の移民に関する話題がメインで不法移民がかくも市民権を持っている国は世界でもアメリカだけではないか。ちょっと理解できない。
・メディア対策
メディアとの対決姿勢。手打ちの見込みは――
当面なさそう。
NYTやCNNには正面からけんかを売られて買っている様子だし、どちらもプライドが高そう。
FOXやブライトバートが味方についてるからメディアはもうそれでいいやといった感じなのか、今後和解の見込みがあるのか。多分和解せずにどちらかが潰れるまで争うのではないかという予測。
・ツイッター戦略
ツイッターで暴れているけれど、今後も続くのか正式に就任したらトーンダウンするのか。
これは変わらないという声も多いけれど、大統領になって実務を積んでいったら自然と変化は現れるのではないかという印象。
公務が忙しかったらつぶやく頻度は減るだろうし機密が色々出てきて好き勝手言うことは出来なくなるのでは。
・経済政策
経済の専門家以外が不用意なことを言っても仕方ないと思うので割愛。
あとで誰か信頼できる人の意見を探してきます。
けど要は公共投資、雇用の創出、景気好転の流れですよね。
・支持率向上に意欲はあるのか
実はもう支持率を短期的に上げることに興味がないのではないかとも言われていたけれど、どうなのか。
2年後には選挙があるらしく、すでに選挙モードとの声も。
基本的にトランプ陣営のことってメディア情報をいくら見ててもわからない部分は大きい。
選挙のときも場当たり的と批判されていたけれど実際は非常に緻密に計算された選挙戦術に則っていたことが明らかになっている。

2.反トランプ陣営への疑問
・なぜそんなに子供っぽいのか
これは前に記事に書いた。
なぜ大統領をnot my presidentなどと幼稚なことを言って認めようとしないのか。
民主制を否定する発言を平気でしつつ、トランプの発言の枝葉末節をとらえて貶める。
これは稚拙以外の何物でもないだろうと思うが、実はそうした有名人を支持する声が大きく、逆にトランプを支えてまとまるべきだと発言した良識ある人が(彼女は何もトランプ支持を表明したわけではない。嫌いでもまとまらなくてはと言っただけだ)叩かれたりと、おかしな風潮だ。
もっともアメリカ人が行き過ぎるのは昔から歴史的に見られることで、インディアンを狩り尽くしてみたり、日本人を締め出してみたり、とにかく何かを正しいと思うと突っ走ってやりすぎてしまう国民性が指摘されている。
今後いつどちらがどのように軌道修正を図るのかこのまま突っ走るのか、狂騒曲に巻き込まれる世界はいい迷惑だろう。
・トランプを批判することで何を実現したいのか
トランプは反オバマでしかないと言われる。そうかもしれない。
では反トランプは?
反反オバマでオバマ政権の8年間を肯定しているだけだ。
とすると、結局この争いは両者の利権対立でしかない。
オバマの8年で不満をため込んだ層がそこからの解放を求めてトランプについた。
オバマの8年を享受した層がそこから離れたくなくてトランプに怒りを向けている。
何のことはない、単なる利権をめぐる生々しい争いでしかない。
自分の利権を失いたくないからごねる。何とも醜い有様だ。
もっと建設的にトランプに訴えかけていけばいいものを、ただ否定するだけではトランプも更に頑なになるだけだろう。
全肯定でも全否定でもない当たり前の論説を示しているのはWSJなどは比較的まともに見えるがあまり数多くないように見える。
・芸能人が自分の影響力を武器に政治活動をするのって変じゃないの
芸能人、いわゆるセレブが政治活動を主導するのはおかしいと思う。
彼らの影響力は政治活動に関するものによるものではないのに芸能活動で得た名声を政治的なプロパガンダに用いている。しかも業界として大々的に。これはさすがにおかしいのではないかと思うがあまり批判を聞かない。個人の自由を重視する国だからなのか。
しかし影響力と見識が釣り合っていない人が影響力を行使するのは社会にとっては害悪でしかないのではないか。特に規制すべきなどとは思わないが、あまり好ましいこととは思わない。

とりあえず思ったことを書き連ねてみた。
もう少し整理していきたいけれど、自分の中ではこれでもすっきりしたので満足。

(追記)
日米関係の変化が一番日本人として関心のあるところだが、もともとアメリカ人への疑問という観点で考えていたのでつい書き漏らしてしまった。
でも基本的に今まで以上に関係は良好になるのではないか。
というのはヨーロッパの主流派との関係が悪化しそうで中国とも緊張関係なので日本とくらい仲良くしておかないとという計算が想定される。
ロシアとは未知数だけど、ロシアと近付くとヨーロッパとは距離が開くという関係性があるらしい。
ロシア問題は共和党と大統領で考えが異なる部分もあるので火種になる恐れも。

(追記)
こうして読み返してみると荒っぽい議論だけど、そう的を外してもいないような気がする。
実際、懸念のいくつかは現実のものとなっている。
WSJに関しては当時やや高く見積もりすぎていた部分があって、別にあれも意図があって紙面を構成しているのであって、決して公正なメディアとは言えないようだ。もっとも、絶対的公正はあり得ないという前提に立つと、やはりある種の経済合理性を目指している分、感情的な論は抑えめであり、比較的まともな部類という感はある。(17/6/5)

2017年1月16日月曜日

アメリカ人は今何を思うのだろう

アメリカは割れている。
そしてそのことが世界中の注目の的になっている。
当然アメリカ人もそのことを意識しているだろう。
韓国も世界のどの程度まで注目を集めているかはわからないが、少なくとも平時よりは注目を浴びている。
そしてそれは不名誉な出来事であり、韓国人はそのことを「恥」の気持ちで受け止めているという。
恥をすすぐための行動がさらに恥の上塗りにならないか隣人として少し不安を覚えるが、それはさておき。
果たしてアメリカ人はどのように自国の状態を、自分たちの行動を、感じているのだろう。
アメリカ人にはおそらく、偉大な国の偉大な国民としての自己認識と、いつの間にかその栄光が失われつつあるのではないかという恐怖やいらだちの2つがあるのではないかと思う。
オバマ政権の下で不満をためた人々がトランプに期待をかけ、オバマ政権下で人生を謳歌していた人々はトランプを罵倒して憚らない。
大統領選後はノーサイドの精神で一丸となった伝統はどこに行ってしまったのだろう、と外から見ていると不思議だ。
そもそもトランプのどこがそんなに気に食わなくて正当に選ばれた次期大統領をmy presidentではないなどとごねているのかよくわからない。
そんなに気に食わないのならば海外に移住するのかというとそんなことは誰も現実的に考えていない。
トランプが選挙中の発言を撤回したと非難する割に、移住するだの何だの言ってた人たちも公約を守っていない。
当選予測を外したメディアや専門家も何らかの形で責任を取ってほしいものだが――
こうした国民の態度は実に子供っぽいが、彼らは自らの大統領を子供っぽいだのなんだのと受け入れない。
アメリカも韓国も大して変わらないが、韓国人は自らを恥じるだけの力があるのでまだましかもしれない。
アメリカ人は今、何を思い、世界に向けてどのようなメッセージを発信しようとしているのだろう。
外からは怒りや不満の爆発ばかりが見えて、和解や協調の動きは殆ど見えてこない。
人々に融和をもたらすリーダーは現れないのだろうか。

(追記)
アメリカ人、という抽象概念ないし集合体の意思を想定してしまっている時点で既に無理があるというようにも読み返すと思われるけれど、当時としては割と真面目に書いたもので、実際にはアメリカ人一般が、というよりはアメリカのそれぞれの人々はそれぞれ何を思うのだろう、といった程度のことだった気がします。
韓国については色々と思いが交錯してコメントが難しいのですが、結局大統領は罷免され、新大統領には進歩派・親北と見られている文氏が就きました。あの騒動では様々な驚きに直面して、今なおそれが続いているけれど、一番の驚きは、どうやら国民が怒りの声を上げた一番の決め手は崔被告の娘の名門大学への裏口入学疑惑だったらしいということ。噂では聞いていたものの、隣国での大学の位置づけがそれほど重大なものということに驚きました。(17/6/5)