2017年2月28日火曜日

寛容?

寛容を説く人が多い。
私も寛容であることに意義を覚えるひとりではある。
しかし、寛容とはいったい何なのか。
無限の寛容はただの野放図と何も変わらない。
何を赦し、何を限界点とするのか。
それは結局のところ、寛容という言葉、概念からは何も見えてこない気がする。

多様性を尊重するというお題目についても同じだ。
というか寛容と多様性の尊重はほぼ同義語として用いられているように思う。
多様性を尊重することは生活していくうえで、今の時代において確かに不可欠のことだろうと思う。
けれど、多様性を尊重することを人に強いるとき、それは既に寛容の精神を失っており、多様性を尊重できない人という多様性を認めないという点で自己矛盾を孕んでいる。

私は何も、寛容という言葉、多様性の尊重という題目そのものを絶対的に信奉しているからこういうことを言っているわけではない。
単なることば遊びの一種であり、揚げ足取りをしているに過ぎない。
けれど、なぜそういうことを言うかと言えば、寛容や多様性の尊重を謳う人々が中途半端に、意識的にか無意識にか言葉の都合のいい面ばかりを押し出して反対する人々を攻撃する様に反発を感じるからだ。
言葉を武器として使うのであれば、言葉の持つそのままの意味で、自分に都合の悪い側面もすべて含めて使ってほしい。
言葉は武器ではなく、人々の思いやあり方を人々に寄り添って記述する友である。
友を身勝手に振り回す人々のことをどうしても認めるわけにはいかない。
そんな義憤にも似た感情がむくむくと頭を擡げてくるほど、今の時代の言論空間はすっかりと乱れてしまっているように見える。

寛容というのは、先にも述べたがそれをどこまでつき進めていくかが重要となる。
行きつくところまで行ってしまえば、犯罪者も人殺しも好き放題の世の中になってしまうし、文化やことばも伝統を守ることがかなわなくなってしまうようなラディカルな立場にもなりうる。
勿論多くの人が言う寛容にそのような含意はないだろう。
けれど、何となく正しそうなことばを絶対的に正しいことばとして使用していけば、行きつくところはどうなるかわからない。
何となく正しそうなことばはなんとなく正しいものとして使うべきで、絶対的に正しいものとして扱ってはならない。


2017年2月26日日曜日

言葉と社会

言葉に自覚的でありたいと思う。
言葉の正確性にはそれなりにこだわっているつもりだし、文体や言葉選びにも自分なりに可能な範囲で気を遣っている。
それでも自分の意図や気持ちを正確に描写することはできないし、自然や事象を写実的に記述することも難しい。
そういうもどかしさを以前書いたような気がする。(途中から話が逸れていくのはいつものことだが)

ただ、言葉が歪であることに救われている部分が大きいことも認めなければならない。
ひとはひとりとして、同じ感性、同じ信念、同じ論理の癖を持っている者はいない。
にもかかわらずどうにか社会生活、家族生活、友人関係を取り結べている、人を自分と同じないしは似た存在として信頼・受容することが出来ているのは、言葉が不確かなものだからだろう。
伝えたいことがすべてダイレクトに頭や心、魂にたたきつけられる道具があったとしたら、人々はこんなに他人を信頼することは出来ない。
その意味で、不自由な言語は人々が適度な社会生活を送る上で不可欠の存在だった、というよりも、こうした不自由な言語に基づいて人々は社会を築き上げたと言うべきなのだろう。

機械という本質的に言語を人間と共有しないものの存在感が増す中、ひとの社会が新しい変化に直面し、人々が対応を迫られるというのは、半ば必然として我々21世紀人に襲い掛かってくる時代状況なのだろう。
漠然とした不安とともに再び例の問いかけが頭を擡げる。
果たして科学は我々にとって悪魔の影を負った天使なのか天使の顔を持った悪魔なのか。
全ては運用する人次第というおためごかしから訣別して、科学者自身が、そして利益を享受するすべての人々が科学・機械文明の正負両面に関して真剣に考えるべき局面を迎えている。

2017年2月23日木曜日

言葉

言葉は意識的にせよ無意識にせよ、嘘をつくために存在している。
真実と嘘に区分するのなら、語られたものは全て嘘だろう。
自分の気持ちを言葉は正しく表してくれないし、それを受け取る人には言葉に表されたものすらまともに伝わらない。

便宜的に人々は正しいことの幅を広くして、嘘を片隅に追いやって生きているが、それも生活の上では賢いやり方なのだろう。
しかし、すべてが所詮は嘘でしかないことを思うと、殊更に「嘘」を糾弾することも虚しく思えてしまう。
文化大革命当時の中国では毛沢東語録がすべての「正義」であり「真実」であった。
正義や真実を外部化した結末はおぞましいものだったが、大なり小なり、国が国としてまとまっていくためには神話が必要とされるのもまた事実だろう。
近代国民国家ではそれが民族の歴史や信仰の伝統に求められたようだが、そうした国家を否定するコスモポリタンが拠り所にするのは何だろう。
アラブ世界では国民国家が早々に限界を見せたことから、イスラーム主義が再び台頭しつつある。
身近なところでも、大陸中国は中華思想に基づいてアメリカ中心の国際秩序に対抗しようとする動きを見せている。
こうした緊張対立関係を戦争という手段によらずに解決することは可能なのか。
今世紀の国際社会を秩序立てる原則はどんな標語で表されることになるのか。
欧米主導の「普遍的」価値観が揺らぎを見せる中、今後の世界の動向が注目される。

2017年2月22日水曜日

石原吉郎詩集

シベリア抑留を生涯詠い続けたと言われる詩人、石原吉郎。

「位置」
しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

「風と結婚式」
ぼくらは 高原から
ぼくらの夏へ帰って来たが
死は こののちにも
ぼくらをおもい
つづけるだろう
ぼくらは 風に
自由だったが
儀式はこののちにも
ぼくらにまとい
つづけるだろう
忘れてはいけないのだ
どこかで ぼくらが
厳粛だったことを
あかるい儀式の窓では
樹木が 風に
もだえており
街路で そのとき犬が
打たれていた
古い巨きな
時計台のま下までも
風は 未来へ
聞くものだ!
ぼくらは にぎやかに
街路をまがり
黒い未来へ
唐突に匂って行く

「三つのあとがき」

「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」
これは、私の友人が強制収容所で取り調べを受けたさいの、取調官に対する彼の最後の発言である。その後彼は死に、その言葉だけが重苦しく私のなかに残った。この言葉は挑発でも、抗議でもない。ありのままの事実の承認である。そして私が詩を書くようになってからも、この言葉は私の中で生き続け、やがて「敵」という、不可解な発想を私に生んだ。私たちはおそらく、対峙が始まるや否や、その一方が自動的に人間でなくなるようなそしてその選別が全くの偶然であるような、そのような関係が不断に再生産される一種の日常性ともいうべきものの中に今も生きている。そして私を唐突に詩へ駆立てたものは、まさにこのような日常性であったということができる。

2017年2月21日火曜日

次元

次元という考え方がある。
1次元は点と線の世界。
2次元になると面積が生まれる。平面の世界。初期のマリオやインベーダーはここに住んでいた。
3次元になると立体、我々が住む世界は一般的に3次元と言われ、近頃のマリオ達はすでにこちらに引っ越しを完了しているようだ。
4次元とは何か。アインシュタインが言ったのか言ってないのか、ベルクソンが言ったのか言ってないのか、小林秀雄と岡潔の対談での触れられ方ではいまひとつわからなかったが、ともかく、時を足して四次元とする見方が生まれた。

その昔、論理さえ通っていれば正しいと思えた幸せな時期があった。
数学の世界ではそれでいいのかもしれないと思っていたが、岡潔はそれでは駄目だと言う。
感情が大切らしい。
とにかくいつからか、論理一辺倒ではまずいと気付いた。
そのとき思ったのが感性だった。
論理と感性というよりは理性と感性、もしくは論理と感情と言った方が対応上都合がいいのかもしれない。
でも最近、やはりその2つだけでも足りないのではないかと思った。
信念が必要なのではないか。
信念は時に感性や理性と相反する場面がある。
そのとき必ず信念に従うということは結局、すべてを信念で決めてしまう一元論でよくないだろうが、信念との葛藤のない理性や感性偏重もおかしいのではないかと思った。
おかしいというのは自分の感覚であって、別にそういう人の存在を否定しようという訳ではないのだが、信念が伺えない人を尊敬することが難しくなった。
とりあえずはそういう3次元的な世界でしばらくやっていこうと思う。
気づいたらマリオみたいに自分もそのうち違う世界に迷い込んでいるかもしれないが。

2017年2月19日日曜日

アイドルG

アイドルという日本語は色々な意味を持ち、ゆるやかな広がりを持つ。
というのは過去から現在に至るまで、様々な形のアイドルがアイドルという名のもとに幅広い活動をしてきたからなのだが、秋元康プロデュースのアイドルグループは最早ひとりひとりをアイドルと呼ぶべきなのかよくわからないレベルで集団化してしまった。

AKB48は元々、クラスにいる程度の女の子による会いに行けるアイドルというコンセプトで始まった。
そこで重視されるのはファンとの生の交流で、そうなると当然、人数は多ければ多い方がいいということになる。
その流れで、次第に洗練化してテレビやCDを主戦場に移した彼女らが依然として大人数で勝負しているのも半ば必然という部分がある。

次にAKBの公式ライバルとして登場した乃木坂46は、コンセプトは知らないが世間的なイメージとしては、AKBが賑やか元気わいわいといった若さ、パワー、熱気を重視するのに対してお嬢様感、上品さや清楚さを志向するチームとして認識されているのではないかと思う。
乃木坂に関して言うと、後発ということもあってAKB以上に洗練されシステム化されたグループという印象があり、握手会などはやっているものの、劇場での生の交流という要素は最初から存在しない。
とすると必ずしも大人数であることは必然とは言えないようだが、AKBのライバルという位置づけのためか、いくらでもメンバーを使い捨てに出来るという大人の側の事情からかわからないが、大所帯での活動となった。
この時点で秋元康グループのアイデンティティに大所帯というものが決定的に組み込まれたように思う。
しかし、大人数がおしとやかに踊り歌うというのはややもすると個性が発揮にしにくい。
実際、AKBよりも人数が少ない割に顔が覚えにくいという声もあった。
結成5年を経て、新メンバーを適宜迎えつつトップグループに登りつめたという噂もあるが、これから世代交代が次々に進むことを思うと未来は決して安泰とは言えない。

基本的に秋元康にはつんくその他のプロデューサーに比しても自分のアイドルへの愛を感じない。
商品として売って売れなくなる前に次の商品を開拓して売りさばいていくといった印象がある。
山口百恵や同時代のアイドルが周りの大人たちに愛され厳しくも優しく育てられた様子と対照的にも見える。
部外者からはわからない魅力があるのかもしれないが欅坂のナチス風?制服騒動を見ても彼の言葉には彼の作る詞の魅力の欠片もなく、失望しかなかった。

欅坂は乃木坂の妹分として2015年8月に集められ、2016年春にデビューすると1stシングルのサイレントマジョリティがいきなりヒット、2nd、3rdと順調に売り上げを伸ばし、年末の紅白にも出場を果たした。
1期生が色々あって21人、2期生合せて32人での活動となった。
欅坂は当初からの計画とも思えないが、最年少の平手を圧倒的センターとして、彼女をいかに全員で引き立てていくかというスタイルにアイデンティティを見出した。
ここでのポイントは圧倒的センターと、それをメンバー全員で支えるという2つの部分で、AKBや乃木坂とは異なりこれまでのところ、メンバーを選抜して1軍・2軍に分けることで競争を煽るという戦略はとっていない。
ポジションや歌割といった部分での競争は維持した一方でメンバーなのに一緒に歌えない・踊れないという断絶をなくした点で画期的というか、秋元グループ以外のアイドルグループでは一般的な戦略に戻ったというか、ともかく秋元グループとして見ればやや異色の戦略であることは間違いない。
基本的には21人(20人)の1期生全員でのパフォーマンスをメインにこれまでやってきたことになるが、これは他の大所帯グループと比べてもパフォーマンスメンバーとしては多い。
これを可能にしたのが世界的ダンサーとして知られるTAKAHIROの全体として1つの物語性を帯びた振り付けだろう。
衣装に関してもユダヤ人団体から抗議を受けるなどの問題もあったが、世界観を象徴するような印象的な服を毎度用意していて力の入れようがわかる。
ある意味選抜メンバーとも言えるカップリングのソロ~5人程度のメンバーで歌う曲のクオリティもかなり高く、秋元グループの中でも一番恵まれた環境にあるのは間違いないだろう。

何書いてるのかわからなくなってきたのでこの辺で。
秋元康はそろそろ人間の女の子には飽きてきたようで次は二次元の世界に進出するらしい。
彼のことは信用しないし尊敬もしないけれど、その才能と才覚にはいつも驚かされるので、これからもフロントランナーとして時空を股にかけて駆け抜けていっていただきたい。
おわり

2017年2月18日土曜日

珈琲牛乳考

珈琲牛乳はおいしい。
しかし珈琲は苦く牛乳は甘ったるい。
混ぜ合わせるとおいしく感じてしまうというのは舌というのもいい加減なものだ。
だからこそ人は平気で毒入りの料理を口にして死んでいった。
毒物については全くの門外漢なので何も言えないが、中には味のしない毒物もあると聞いた。
これは恐ろしい。
毒なのに違和感なく口にしてしまい、そして命を落とす。
その一方では健康によいはずのものが毒と誤認されてか強烈な味わいをすることもある。
劇物は取り扱いが難しい。
しかし巷では不良外国人が覚醒剤を売り捌き、女子高生が猛毒を級友に盛って障害を負わせて裁判沙汰になったりしているらしい。
カレーに毒物を入れてふるまい、幾人も殺してしまったとされる事件もあった。
毒はクスリにもなるというのとは違うが、毒をもって毒を制すというか、毒が必要となる場面も当然存在するわけで、何でもかんでも素人からは取り上げてしまえばいいという話ではないのだろうが、毒に怯えて生活することを思うと管理はしっかりとやってほしいと、半ば無責任な要求をしたくもなる。
毒と言えば先日死んだ北朝鮮の前指導者の息子も毒針だか毒布だか毒スプレーだかわからぬが、どうやら毒殺されたことは確からしい。
毒というのは長い歴史を持つものだが、こうして今も随分と古典的な方法で暗殺がなされているのだと感慨深いものがある。
珈琲の話だか毒物の話だか何だか分からなくなってしまったが、これも一つの随想の形ということでこのままにしておく。

言い切る人と煮え切らない人

何でもかんでも知ったことのように話し、それでいて何も責任を取らない人がいる。
そういう人は優れた部分があっても誤りとそれを量産する言葉の軽さに相殺されてどうにも始末に負えない。
朝日新聞が人々に支持されない理由はそういう側面が大きい。
誰とは言わないが、そういった朝日新聞的知識人は多い。

一方で、何も自分の意見を言おうとせず、誰かから聞いた、何かで読んだ意見でしか語れない人も信用できない。
その人が生身の人間としてどういった考えを持ち、どう行動するのかが見えてこないからだろうか。

駄目なものはよくわかるけれど、相応しい形というのは日々探っていかないとなかなか見えてこない。
石原慎太郎の本を読んでいて、釈迦は人を見て説法をしろと言ったと知った。
たしかに思い返してみると、ある人にはうまくいった話し方で他の人とはうまく嚙み合わなかったりすることは多い。
語彙のレベル、比喩のとりかた、調子、声の大きさ、等々人には人の選好があって、それに合わせてチューニングして適切な接し方をするのがあるべき姿なのだろう。
固有性と普遍性、両方を意識して自分なりのベストを尽くすことが一番なのだろうか。

基本的に自分の考えの仕方だと誰かの言ったアウフヘーベン的なところに結論することが多い気がした。

2017年2月17日金曜日

日本語が亡びるとき―水村美苗

なかなか面白い評論だった。
なるほど評論とはこういう文章かと腑に落ちた。
評論を知らないわけではないつもりだが、読むものというと小林秀雄世代が主で、他に高坂正堯の文章も一般に評論に分類されるものが多いと知ったが、いずれも故人である。
近頃の評論というとその名手も代表的人物も杳として知れず、評論が評論家という名の不可思議な肩書に吸収されて消失してしまった感すら漂う。
そんな時代において、この著者は作家だそうだが、立派に評論を執筆し発表し、そして大きな反響を呼んだ。
その意味で彼女は偉大だと思った。
国内と国外の影響を共に強く受けて自分の言葉で語り出したという点で、小林秀雄や夏目漱石に通じるものを感じた。
内容についてはそれほど咀嚼できていないししばらくはそれを試みる予定もないので印象論に留める。
究極的に批評とは吟味ではなく印象論が全てだと思うのだが、それは誤謬だろうか。
何にせよ楽しい読書体験だった。

2017年2月15日水曜日

収容所から来た遺書ー辺見じゅん


久々に衝撃を受けた。
シベリア抑留のことは昨年の赤い運命(再放送)でも見て何となくわかった気分になっていたが、想像を絶する、あるいは想像を拒絶するような出来事だったのだと思った。
もう少しこのことについて理解を深めたい。
辛い時に人々を鼓舞する言葉の力、人に思いを伝える言葉の重みを感じた。
軽躁な興奮は人を饒舌にさせるが、圧倒的なものを前に人は言葉を失う。

2017年2月12日日曜日

世襲と信仰の自由

さる女優・声優が新興宗教への帰依の事実を公表するとともに芸能界引退の意思を明かした。

色々と法的にも社会的、経済的にも問題がある軽率なふるまいに見えるが、それは脇に置いて。
親が宗教にはまったがために子供が当然にその宗教に入信するという構造に、子供の信仰の自由は存在するのだろうか。
信仰の自由というと、権力からの自由、弾圧されずに信仰を守られる自由に力点が置かれてきたように思うが、信仰の自由が一番侵害されているのは、侵害とも気づかずにひとつの信仰を強要されている宗教の世襲客体、親の信仰を当然のものとして押し付けられる子供なのではないかと思った。

これは何も宗教に限った構造ではない。
家庭教育の方針はすべて両親に一任されており、学校教育は教師に一任されている。
そこでの方針に子供が逆らおうとすれば摩擦が生じ、一般的には権力者である親や教師のいいようにあしらわれるか罰せられる。
子供の価値観は大人たちに従属せざるを得ない構造がある。
これが強固であれば子供は抑圧され、脆弱であれば子供の叛逆が生じる。

だから何、という話でもないのだが、子供とは不自由な自由が過剰な存在だと思った。

2017年2月11日土曜日

沈黙

沈黙には何種類かのパターンがある。
まずは敬意による沈黙。尊敬する人のことについて、畏れ多くて何かを自分の手で語ることを忌避するための沈黙。
そして無視。存在を認識しているが相手にするまでもないという無視と、存在すら意識していない無視があるが、どちらも取るに足らないものを退けるものと言える。
暗黙知として共通の了解について省く場合もある。
他にも、理解が追い付かなかったり、言葉をなくしてしまったり、沈黙する場面と言うのは色々とある。
沈黙は記録に残らない。
雄弁のみが歴史を紡いでいく。
ある人が何について語らなかったかに迫ることは難しいが、そうしたアプローチから見えてくるものも大きいのではないかとふと思った。

2017年2月10日金曜日

小説

小説とは何か。
読み手としての小説と書き手としての小説にはかなりの乖離があるように思える。
評論や詩歌では書き手と読み手に求められる要素に然程の違いはなく、優れた読み手は即ち優れた書き手たる素養を持ち、その逆も然りと言えそうに思う。
しかし、小説に関してはどうも、優れた小説家が優れた小説読者とも限らないし、小説の優れた読み手が即ち小説家になる素養を持っていると言えるかというと必ずしもそうとも言い難いのではないかという気がする。
それはセンスや感性という曖昧な言葉で誤魔化される類のものではなく、構築力、世界の創造者たる意思の有無ではないか。
小説家は次々と新しい世界を自らの手によって作り出して創造主として世界を操る義務を負う。
創造主は自由気ままな一方で、時に非情な決断を迫られる。
そうした責任を楽しめるか苦痛に感じるか、苦痛だとしてそれを乗り越えられるか嫌になってしまうのか。
そうした創造主としての諸々の素質を兼ね備えた者が初めて小説家としてのスタートを切ることができる。
そしてその後、凡庸な小説家となるか優れた小説家として認められるか、真の戦いが始まる。
小説家というのはこうして見ると随分と大変な仕事だと思う。

2017年2月9日木曜日

福田恒存

福田について少し気になる場面があったので、改めて読み直している。
評伝もかなり発表されていて、それぞれの愛と敬意が伝わって来て読み応えがある。
第一印象よりももっと複雑な人なのかもしれないと感じた。

2017年2月7日火曜日

嘘の戦争

草彅剛主演で放送中のドラマ、なかなか面白い。
ブラックな話が好きなのかな…去年流行ったドラマはどれもあまりピンと来ないで砂の塔やコピーフェイス、再放送の赤いシリーズを見ていた。
砂の塔もそうだったけれど、オリジナル脚本の意欲作はわくわくして次週が楽しみ。
原作物も悪くないけれど、どうしても原作と比べてしまうし話の筋がわかってしまうところが残念。

何となく1日1記事のペースを守ろうとしてみたけれど、いざ文章にしてみると自分の知識不足が露呈して思うようなものが書けないことが多い。
そんな状態でも他人の文章の批判は簡単にできてしまって、さも自分はわかっているような錯覚に陥りやすい。
わかった気からわかった状態に持っていくのは案外大変なことなのかもしれないと反省した。

2017年2月6日月曜日

経験と喪失

経験を奨励する声は多い。
社会勉強、旅、苦労、等々。
何事も勉強だと言うのはそうだと思う。
ただ、何かを得るのと同時に、何かを失っていることを指摘する声はあまり聞かない。

経験することで開かれる世界がある一方で、それまでに見えていたもの、感じていたものを同じように感じることは出来なくなる。
何事も一期一会。
出会いは喜ばしいものだけれど、それによって傷ついたり喪われるものもある。
だから無理に何かを追い求めることばかりが善ではないのかな、と思うようになった。

普通に生活していればそんなことは当たり前の話なのかもしれないが。
やはり理が勝りすぎる部分がまだあるのかもしれない。

開高健を読んでこんなことを思うとは思考というのは何とも皮肉に出来ている…。

2017年2月5日日曜日

役人と試験

役人と言うのは昔から、試験が付き物の存在のようだ。
中国では古くから科挙官僚が活躍し、日本でもそれに倣った試験制度が作られた。
今でも日本の官僚は名門大学出身者(大学受験の勝者)の中から国家公務員試験での成績優秀者が選ばれる。

よく言われることだが、優秀な人は試験を通るのも容易いかもしれないが、試験に通ったからと言って優秀だとは限らない。
その辺りの認識のズレが官僚の悲劇かもしれないと思った。

それにしても官僚は世間の風当たりが強い。
文科省の天下り報道でそれを痛感した。
天下りなど銀行でもマスコミでもメーカーでも、一流企業と言われる古くからの会社ではどこでもやっている慣行に見えるが…。
天下りをなくすのであれば自分の能力を活かせる制度を代わりに用意してほしいというのが彼らの率直な感想ではないだろうか。
そしてそれは政治や民間の協力なしには実現しないだろう。
いくら建前では官僚主導からの脱却を謳ったところで、日本最大にして最強のシンクタンクが霞が関だという事実は消えないわけで、そこで働く人々への報酬は相応のものがあって当然だと思う。
日本の大学の文系学部がもっとしっかりしていれば、官僚の負担も随分と軽くなる部分もあるように見えるが…。

2017年2月4日土曜日

アイドルについて

論じるほどの情熱も見識も持合せないので曖昧な表題になった。

これまでの自分を振返ってみると、随分と多くのアイドルを内面に持って生きてきたように思う。

小学生時代はアイドルと呼べる存在はあまりなかったかもしれないが、身近な存在にある種のアイドル性を感じていた。
水泳教室のコーチだったり、近所のピアノの先生だったり、一緒に学校まで通ってくれた上級性だったり。
友が皆高く見えると歌ったのは誰だったか、身近な人が皆秀でて見えた辛く幸せな時期だった。

中学時代には小学校時代以上に本に集中した。
村上春樹の世界に耽溺したのもこの時期だった。三浦綾子や立原正秋に嵌ったのもそうだったと思う。
綺麗な世界に憧れて、ある種の現実逃避として読書に勤しんだ。
世界が汚らしく思えて息苦しかった。自分も情けなかった。

高校時代にはフィクションの世界からの脱出を試みていたように思う。
新書を読んでみたり書店で新刊を片っ端から立ち読みしてみたりしたが、あまり感性を刺激する著者は少なかった。

大学時代は色々なことがあってあっという間に去った。
この時期のアイドルと言えば井上達夫や御厨貴、実務家として第一線で活躍している人々だろうか。
一流に憧れていた。
自分もそうありたいと思いつつもどこかそう信じきれなかった。

今アイドルと言えば山口百恵と赤西仁、中島健人、鈴木愛理、武藤彩未、欅坂、乃木坂といったところだろうか。
SMAPもいつの間にか大きな存在になっていて昨年は驚かされた。
熱烈なファンという訳でもなく、彼らの人生をつまみ食いしているようでどこか申し訳ない気がする。

誰かひとりを選ぶとしたら小林秀雄だろう。
出会ってから今まで、惹きつけてやまないという人は少ない。
いつか彼を卒業する日も来るのだろうか。
いつの間にか彼と出会ったときよりも世界にも自分にも自信と誇りを持てるようになった。

2017年2月3日金曜日

論理と感性

今の社会は論理が何かと幅を利かす。
法律、科学、数字、統計。
固いもの、正しそうなものが重んじられ、それらに当てはまらないものは迷信、陰謀論、感情論として嫌われる。
その一方で巷には迷信としか思われないものが綺麗にラッピングされて実しやかに語られている例が少なくないようにも見える。

論理と感性、これは考える上で車の両輪のようなものだろう。
どちらが過剰でも真っすぐに進むことは難しい。
論理は男が得意だとされ、女は感性に秀でるとも言われる。
この対比が正しいかわからないが、人によってその比重に差があるのは確かだろう。

恩田陸が面白いことを言っていた。
人には皆、男の子の部分と女の子の部分がある。それを使い分けることで色々な物語を紡いできた―そんな趣旨だった。
彼女の書く文章の変幻自在には驚くばかりだが、これは意識的に自分の思考を切り替えることで達成されたものらしい。

最近は女も男と同じ世界で戦い、女々しい男の歌がもてはやされるらしい。
男女の差が縮まってきているのだろうか。
ただ、男女の強いられた差異がなくなるのは望ましいことだろうが、それが女に男のふるまいを、男に女のふるまいを強いるものになっていないか不安になることがある。

何だかまとまりのない文を並べただけになってしまった。
タイトルをつけるとしたら何になるだろう…


2017年2月2日木曜日

歴史と今

後世トランプアメリカ大統領はどう伝えられるのだろう。
そうぼんやり考えていた。

今世界で権威を持っているメディアはトランプに対して非常に不当な立場を鮮明にしている。
人々がそれをどう受け取っているのかは正直なところ、よくわからない。
素直な人はメディアのプロパガンダを信じるだろうし、それに反発する人は逆にトランプを信奉するかもしれない。
メディアにもトランプにも嫌気が差して政治から距離を取る人もいれば、現状に危機感を抱いて自発的に行動を起こす人もいるだろう。

先日読んだ中国系アメリカ人の本における歴史の扱い方があまりに杜撰で衝撃を受けた。
欧米の一部知識人の論の運びにおける我田引水には驚くべきものがある。
彼らにとって歴史は自分の主張を強化するためのアクセサリーに過ぎないのだろう。

歴史は引用する者によって常に恣意的に用いられる宿命のように見える。
河上徹太郎のヴァレリーへの言及を読んだが、その「歴史」への嫌悪は非常に印象深かった。
歴史は常に誤謬に満ちたものとして記録され、恣意的に引用される。

賢者は歴史に学ぶというが、歴史と正しく向き合うことはどうしたら可能なのだろう。

2017年2月1日水曜日

ワシントンの中のアジア―ケント・E・カルダー

興味深く読んだ。
ワシントンは今、トランプ政権の誕生と共に激変のさなかにあると見られ、どこまでこの本の記述が当たっているかわからないが、基本的なところでは変化は少ないだろう。

アジェンダ・セッティングの場がシンクタンクや大学の研究センターに大きくシフトしているのに日本は対応できていない、ということが一番の指摘だったように思う。

以前から一部ではシンクタンクが三権に次ぐ権力に数えられたり、知識としては知っていたが、こうして具体的に指摘されると迫力が違う。
中国・韓国は失速しつつあるようにも見えるが、日本は今後存在感を高めていくことができるだろうか。
とりあえずは今度のmad dogマティス国防長官の来日、稲田防衛大臣・安倍総理との会談内容に注目したい。