2017年3月31日金曜日

目標(改)

今日年度末特別金曜日。雨天。我日常散歩隣町、而今日散歩不可。暇人。

擬古文ならぬ偽中国語が流行っているらしいという記事を読んで試してみました。偽中国語。
だいたい意味はわかるでしょう。昔、中国に行って困ったら漢字で筆談をすればいいと言った先生がいましたが、どうやら本当になんとなく通じてしまうみたいですね。その記事に紹介されていたネットの声が本物ならの話ですが。

さて、雨で暇になってしまった。
雨の日はどうも気持ちも体調もいまひとつ全開といかなくて、だらだらしてしまいますが。
今日はどう過ごしたものか。
年度末、最後の日なんですよね。
明日からは結構いそがしい予定なので、今日はやっぱり自然に任せてのんびり過ごそうかな・・・

そう、4月からの目標の1つに語学を頑張るというものがあって、なのにまだどの言葉をやるか決められていないんですが、何かせっかくなのでこのブログも学習に活用できたらいいですね。
英語/フランス語/中国語で書く?
偽中国語なら行けそうだけど、英語もフランス語も、ましてロシア語やラテン語は無理だしなぁ…。
ちょっと何か考えてみようと思います。

以前目標を掲げてみたけど、また10個新しく上げてみます。

・語学を頑張る(英語、フランス語、ロシア語、日本語;だいたいこの順に)
・よく歩き、よく食べよく寝て、柔らかく筋肉質の体を作る
・身なりを整える
・健康。病気にならないように気をつける
・図書館によく通い、本は1日3冊くらい読む
・ニュースに親しむ、色々な人のニュースへのコメントから学ぶ
・仕事と勉強を頑張る(来年度以降に繋がる1年に)
・お金に敏感になる;節約と、価値のあるものへの投資のバランス。コストパフォーマンスを常に意識
・出会いを大切にする
・自分に&人にやさしく。そのためにもゆとりある生活を心掛ける

(追記)
アップデートしました。本来は前のも残しておいた方がよかったのかもしれないけど、新目標10個です。(2017.6.9)

2017年3月30日木曜日

Copernicus

コペルニクス的転回ってなんだろうみたいなことを以前に書いたら、この前本棚を見ていたら「コペルニクス革命」という本を見つけてしまった。
こう堂々と書かれると、既に転回で認識してしまっている脳が違和感を訴えてくる。

コペルニクス的転回と言えば(?)試しにアドセンスを導入してみたんだけど、ちゃんと表示されてますか?
多分すぐにやめますが。というのは全然アクセス数ないのをわかって広告を入れても収入など期待できないし、せっかく来てくれた方にさらに不便な思いをさせてしまうのは申し訳ない気がするので。
じゃあなんで始めたのかというと、そこにそういうボタンがあったから、つい出来心でというやつです。でも自分でブログを表示してみても広告が表示されないんですよね。
ちょっと試しに1週間くらい続けてみるかもしれませんが、ご了承ください。

(追記)
だいたい感じがつかめた気がするので、一旦アドセンスの広告表示は終わりにしました。
多分アクセスが100倍くらいに伸びれば広告収入もそれなりに意義のあるものになるのかな、といったところ。
でもアクセス数の推移と収益の伸びがいまひとつ比例してなくて、結局いまひとつよくわからない部分も残りました。(2017.6.11)

2017年3月29日水曜日

年度末に

一応、年度末という区切りに来し方行く末を占っておくことも必要かと思って筆を執った。
と言ってもあまり過去を振り返ってみても沈鬱な気分に陥りかねないので過去はさらっと。
この3か月弱、よく本を読んで勉強したものだとまずは自分を褒めておきたい。
実際、こんなに集中的に書物と向き合って勉強をしたのはこれまでの人生を振返ってもそうないことだったと思う。
色々と実りある時間だったけれど、今振り返ってパッと思いつく言葉は為末大の「限界は人々が、自分が、勝手に設定しているだけのものにすぎない」というもの。
手元に著書がないので自分の理解で書いているけれど、そんなに大きく違ってはいないと思う。
陸上の世界で、〇秒の壁とか〇メートルの壁といったものが取沙汰されることは多いが、誰かひとりでもその記録を超えてしまうと、なし崩し的に誰もがその限界を超えてしまうことが多いという。
もちろんそれは単に意識の問題とだけ見ることは出来ず、練習・トレーニングの効率化だったりスポーツ用品の技術向上だったりいろいろな総合力が引き上げられて新たなフェーズに突入したとか、そういう面もあるのだろうが、個人として見ればやはり意識の壁の問題は大きなものと見ていいように思う。
これはスポーツ界に限らず、勝手に自分に限界を決めてしまうことは往々にしてあるので、それは精神安定上必ずしも悪いことと思わないが、そのことに意識的になることまでは、特に弊害もないように思うのでそうした方がいい気がする。
そのあと、アスリートのようにストイックにその壁を超えようとするか壁は壁だとその範囲内で生きていくかはその時々の体調や心理状態、人生観にからんでくるので個人の選択だろう。
自分の場合は割合、やれるところまでやってみたい気もするけれど、結構周りが見えなくなるところもあるので周りに迷惑をかけない程度にとどめておいた方がいいのだろうとも思っている。
他に印象深かった本としては相良亨「日本人の心」、苅部直・片岡龍「日本思想史ハンドブック」、福田歓一「政治学史」、河上徹太郎「有愁日記」、三島由紀夫「日本人養成講座」、藤村シシン「古代ギリシャのリアル」、清水克祐「アメリカ州別文化辞典」、井上順孝編「リーディングス戦後日本の地下水脈6 社会の変容と宗教の諸相」、義江・山内・本村「歴史の対位法」、木庭顕「ローマ法案内」「現代日本法へのカタバシス」、毛里和子「現代中国政治」、末次由紀・あんの秀子「ちはやと覚える百人一首」、「失恋ショコラティエ」、「ちはやふる」、「四月は君の嘘」、「ドラえもん劇場版」など。
他にもいろいろとある気がするが、列挙するのに疲れたのでこのあたりに留める。

4月からの生活としては、当然思い描いていることすべてをここに記そうとは思わないが、ここ3か月のように本をたくさん読むということは難しい気がしている。
緩急をつけることが必要ということもあるし、今どうしても読みたい本は読んでしまったということもあって、今後生きていく中でいずれ読みたい本はきりがないが、このあたりで一区切りをつけてもいいのではないかと思った。
とはいえ1日に1冊程度は時間の許す範囲で読んでいけたらと思う。(ここ3か月弱で記録しただけで600冊超の本を読んでいるので単純計算で1日8冊程度読んでいたことになる。もっとも、読み方にも読んでいる本の質にも大分ムラがあってあまり意味のない数字だが)

一応今考えていることとして、
1.〇〇〇〇を通じて知識のいまいちどの体系化を図る
2.〇〇〇講座などを利用して語学を勉強し直す
3.規則正しい生活や運動、食事を通じて健康を心掛ける
4.〇〇〇〇を見据えて準備する

とりあえずはこんな感じで考えている。充実した日々を過ごせますように・・・

(追記)
○○に当てはまることは一応、想定して書いていたわけだけど、既に何を想定していたのか一部曖昧になりつつあるので、ここに記しておこうと思います。
なお、当時の予定であって、今はそれも想定しつつもすべてそのまま考えているわけではないです。
1→放送大学 2→NHK(ゴガク) 4→受験勉強
4に関しては、大学院というよりは当時は大学の他学部を受験することを想定していました。
いまは50・50程度。年齢、時間、お金、等々考え出すと色々な課題があって答えが出ないしだんだんと暗くなってきてしまいかねないのでとりあえず結論は棚上げして準備を進めている感じです。
たぶん最終的にも、併願して合格したものの中から選択するといった感じになるかと思います。
自己決定を重視する立場からは責任放棄と映るかもしれませんが(そもそもそんなツッコミを入れる人がいるのか、というツッコミは聞かなかったことにして)人生というのはそんなに自分の決定によってばかり決まらないというのが経験的な把握です。
なので応接としては、仰る通りだと思いますが私は自己決定の至高性を無邪気に信じられるほど優れた人物でも愚かな人物でもないようです、といったところになるかと思います。(本当に、誰に向けて言い訳してるんだろう。いや、でも割と何人も、そういうことを素面で言ってきそうな偉い人が身近にいた時期があったので…)

2017年3月23日木曜日

論評論

評論を論ず、論を評するを論ず、ですかね。
まあ何でもいいんですが、山本山的な構造にしたかっただけなので。
普通に言ったら評論論の方が自然なのかもしれないです。

評論という文章のかたちがわからない。
評論とは何なのか。
・類似品との区別
随筆、批評、評論、論説。
この辺りのものの区別からして難しい。
そもそも、批評(評論)・評論(批評)という表記もなされるくらい真ん中のふたつは近いものであるようでもある。
随筆と言えば、エッセイ。徒然なるままに、といった風合いがあって、割合気楽な文章というニュアンスがある。
一方、論説というと、論、論ずるという格式張った印象が強い。何か正しい論の運びというものがあって、それに則って厳格に物事を語るといったイメージになる。
評論や批評というのはその中間に位置づけられ、両者のいいところどりを目指し、ともすると両者の悪い側面が表出しかねない難しいバランスでのかじ取りが要求される高度な営為だ、と言ってもいいのかもしれない。
私は批評と評論は同じではないと思う。
どう違うと明確に示すことはできないが、同じなのであれば2つの言葉がある意味がないではないか。
完全に重なりあう概念だとしたらどちらかが駆逐されて1つに統一されているはずではないのかと思う。
私の個人的な感覚で言えば、批評というと「評価」の意味合いが強く感じられる。
「批判」に近い語感によるものだろうか。批判的に論ずるにせよ、肯定的に論じるにせよ、評価を前面に出して論評するとき、「批評」という言葉がふさわしいように感じる。
一方、評論というと、「論じる」ことに力点が置かれたものを私はイメージする。
もっとも、この辺りは絶対的なものでは全くないだろう。
現に評論にもまさに「評価」の「評」の字が含まれている。

・評論家というもの
評論を考えるとき、「評論家」ということばを避けて通ることは難しい。
評論家とは何かについて一家言を持つ有識者といったものだが、このことばは評論そのもの以上に不可思議なものである。
何についても評論家は存在するようでTVをつけると必ずと言っていいほど目にするが、彼らがしゃべっていることは必ずしも専門家の言とは思われない。
一般人に毛の生えたような人々が評論家として登場することで、どこか本家の評論までが貶められているような印象がある。
評論家を揶揄して「好き嫌いを言うだけで食べていけるいい御商売」などと言った人がいたが、考えてみるとこの言はなかなか正鵠を射ているように思われる。
というのは、優れた評論というのは鋭敏な感性に基づいて物事の善し悪しを論ずるものであって、そこでなされているのは確かに極めて主観的な、物事への個人的な好悪の言明に思われるからだ。
もっともここで私が想起したのは小林秀雄であり、小林秀雄の文章は私の区分では評論ではなく批評になるのだが、評論と批評が等しく用いられている一般の用語法に則ればこの物言いは許容されるだろう。

・評論がしていること―類比による把握
私の評論のイメージは、アービトラージである。
裁定取引(アービトラージ)とは、同一の価値を持つ商品の一時的な価格差(歪み)が生じた際に、割高なほうを売り、割安なほうを買い、その後、両者の価格差が縮小した時点でそれぞれの反対売買を行うことで利益を獲得しようとする取引のこと。 機関投資家などが、リスクを低くしながら利ざやを稼ぐ際に利用する手法です。
世間で埋もれた優れたものを掘り出してきて称賛する、世間で支持されているものの不具合を指摘して注意喚起する。
あるいは骨董収集家のようなものとも言えるかもしれない。
その意味で、小林秀雄が一時批評を離れて骨董に没入していたということは興味深い。
…小林にばかり言及しているが 、それは彼の強烈な個性が私を惹きつけてやまないだけで、評論として見れば河上徹太郎や吉田健一の文章も小林と並んで魅力的な評論だと思っている。
最近の評論は彼らほど刺激的なものが少ない気がするのは寂しいところである。

一応背景を説明しておくと、群像評論賞みたいな賞があって、何か書いてみようかと思ったものの、評論って何だっけっていうところからしてよくわからなかったので少し考えを整理してみようとして書いたのがこの文です。
果たして整理できたのか余計ややこしくなったのかわからないけど、自分にとっては結構楽しく書けた文章なのでよかったことにします。
まあ結局よくわからないことがよくわかったというだけの段階ですが。

2017年3月22日水曜日

夢追い人

学部時代、夢を語り合おうみたいな流れになったことがあって。
その頃からさめていた、というかあまりそういうことは口にしたくなかった自分は結構抵抗したものの何か言わされて嫌な思い出のひとつだったんですが。
そのとき映画作りたいって言った友達がいて、そのときは正直、はいはい、どうせ5年後は普通に銀行かどっかで働いててそんなこと言ったっけとかとぼけるんでしょ、って思ってたんだけど。
なんとなく気になって検索したら(やっぱり気持ち悪いですかね。割と楽しいんだけど)なんと映画業界で頑張ってるらしくて。
ちょっと感動してしまったし、自分ももっと夢に向かって頑張らないとと思いました。
自分の場合、夢のかたちを掴むのに随分と時間がかかってしまったけれど。
これから頑張って、もう活躍しはじめてる皆にいつか自分が今回感じたような刺激を与えられるくらいの何者かになりたいと思う。
相変わらずあまり強く言い切れない自分がちょっと嫌になるけどこれが自分だとも思うので。
さーて。今日も一日頑張ろう。

2017年3月20日月曜日

嫌いという感情

嫌いという感情が明白で、早く離れればいいのになぜかこだわってくっついたままお互いイライラしてしまうような関係って経験したことありますか。
自分は学生時代結構悲惨にそういう状態に陥ったことがあって、今から思うと随分と無駄なことをして時間と心を費やしてしまったものだと思う。
って別にロマンチックな関係でもなんでもなくて、本当に純粋に馬が合わない友人と随分と密にコンタクトをとりつづけてしまったという話なんですが。
あの頃は若かった、と思うのはエネルギーに満ち溢れていて、諦めるという選択肢が出てくるまでかなりの時間と労力を費やさなくてはならなかったこと、そして諦めるという道を選ぶ理由がないと思うくらい、自分の、友人たちの、能力を過信していたこと。

コミュニケーション幻想というものがあって、これが一般的な用語法なのか自分の勝手な用語法なのかわからないけど、「話せばわかる」をピュアに信じていた時期があった。
前にも書いた気もするけど、今の自分の考えを同じように標語的に表現すると、「話せば話すほど違いが浮き彫りになる。その違いを自分も相手も受け入れる度量があると確信できない限り、絶対につきつめて話をするな」といった感じになるわけで、根本は変わってないつもりだけど、結論だけ見ると180度転回してしまった。
どうでもいい脱線をすると、コペルニクス的転回って英語だとCopernicus revolutionで、なんでわざわざ転回なんていう言葉を持ち出したのか少し気になっている。Copernicusの革命、じゃダメだったんだろうか。もしくは回転。転回って…。

久々に東京にいた頃、一緒に住んでいた(さっきも言ったけど全然ロマンチックでも危ない関係でもない)ただの友人たちのことを思い出して、こんな小文を書いている。
昔の自分はかなり衝動的で向こう見ずなところがあって、最近は反省しておとなしくしているつもりだけど、まあそのときも新生活への憧れと友人への勝手な理想の投影をもとにして当時流行りはじめていたハウスシェアに突っ走ってしまったものだった。
数か月で嫌になって実家に出戻りするというしょうもないこともあって、色々と苦い思い出ではあるものの、色々あった学部時代の思い出でもトップクラスに味わい深い思い出でもある。もっとも一緒に暮らしたあの人たちから見たら迷惑以外のなんでもなかったかもしれない。
年に1度くらい突発的に思い出してネット検索してみるくらいで、すっかり没交渉になってしまったけれど。
検索して全然名前が出てこないと大丈夫か気になってキーワードを変えて色々調べてしまう程度には気にしているというか。ちょっと気持ち悪いですかねやっぱり。
多分全員集まることはもうないけど、もし機会があったら腹を割って話してみるとちょっと面白いかもしれないとは思っている。

2017年3月18日土曜日

名言集

名言集の類は自己啓発系の本の中では比較的好きだ。
短い言葉の中に必ず何らかのメッセージが含まれていて、読みやすいし覚えておきやすい。
とは言え、一人ひとりで感性が違い、生き方も違うのだから当然、自分にとっての名言と編者が思う名言には乖離があるし、既存のものでは漏れが出てくるのも当然だろう。
ということで、自分用の名句集を作って読書ノートの代りにしてしまえばいいのではないかと思った。
これはロシア語翻訳家の方がドストエフスキーの警句集を自分用の抜き書きから選りすぐって本にしたものを手に取った影響が大きい。

というわけで、少しずついい言葉を溜めていこうと思う。


2017年3月16日木曜日

図書館

あまり使ったことなかったけど、図書館の参考図書コーナーって結構充実してますね。
勉強しようと思ったら何かしらその分野について詳細な本が置いてあるというのは心強いし、逆に参考図書を興味の赴くままに読み漁っていても気分よく暇がつぶせるというか。
ただ、地元図書館のレベルだと、自分が詳しい分野に関してはやっぱり物足りなさもありますね。
物足りないと言いつつ、もちろん全部を知ってるわけじゃないので新しい発見はあるわけだけど、知りたいと思って知にアクセスしようとするとそこにある資料では足りなかったり。
それでも<総合知>については地元の図書館にお世話になりつつここ2,3ヵ月で随分と磨かれた気がするし、まだまだ読んでいない本を思うと今後も長くお世話になりそう。
ネット予約しておくと市内各地の図書館の本を最寄りの図書館カウンターで借りられたり、市内にない図書も県内の図書館から取り寄せてくれたり結構サービスいいんですよね。
「図書館についての本」はすごく充実してて、暇を見て色々と読んでいると結構楽しい。
ちょっとずつ将来のことも見えてきつつあるように思うので、あとは自分を信じてやるべきことをやっていくことなのかな。

2017年3月15日水曜日

何も語れない

結構勉強したつもりでも、何も語れないという事実に気づく。
誰だったか、本一冊書けるくらいになってこそ理解したと言えるんだというようなことを言ってる人がいたけれど、その意味で言うと何も理解していないということになる。
量の問題なのか質の問題なのか時の問題なのか。
何にせよ、解決可能な問題だと信じたいところ。信じるしかないし。
そろそろ漫然と知識や愉しみを求めて本を読むという段階から何か目的意識に基づいてやっていく段階に移行した方がいいのかもしれない。
知識をひとつひとつ位置付けていく作業。もっと自由に色々と渉猟する方が性にあっているとは思うけれど。
少年老い易く学成り難し。
本当にこれだなー。案外人生、時間が足りない気がしてきた。

2017年3月14日火曜日

歌謡曲からJ-POP、そして・・・

音楽業界の次世代は誰が担うんですかね。
そろそろ秋元康のひとり勝ちも終わるのではないかと期待。
期待と言いつつ欅坂を応援している訳で別に秋元康のセンスは嫌いじゃないんですが、やっぱり長く続くと限界が来るのではないかと。
その意味では阿久悠の引き際は惜しくもあったけど立派だったんじゃないですかね。
秋元康の引き際はあまり綺麗な形にならなそうな気もするけど、広げた大風呂敷をどうまとめるのか、要注目ですね。
秋元康の歌詞は自分が書きたいことを書いているのか、女の子に歌わせたいことを書いているのか、なんとなく売れそうなことを書いているのか、時代を作ろうとしているのか時代の波に乗ろうとしているのか時代を追いかけているのか、とかスタンスがよくわからないので何だか好きと言い切れないもどかしさがあるけど、欅坂の楽曲に関しては歌詞も含めて結構好きですね。
本当は秋元康と阿久悠を比較しつつ論じて歌詞について何か言えればいいと思ったんだけど、そんな見識もこれから資料や音源を渉猟して書きあげようという熱意も足りず、こんなよくわからないメッセージ性に欠ける文字の羅列になってしまったという・・・
誰かが秋元康とミスチルの桜井和寿について、歌詞が説明的過ぎる、言葉が言いすぎていて想像の余地がないと批判していて、その通りだと思った。
それに対して、その大衆性が彼らの特徴であり長所なのだからそこを批判されても、みたいなファンからの応答もあって、まあそれもそうなのかな、とも。
でもたしかにわかりやすさがもてはやされすぎる風潮がしばらくありましたね。
池上彰から林修の系譜というか。
難しいものをわかりやすく説明するというのは、記述の混乱を正したり表現を工夫することである程度可能ではあっても、ある程度までの話で、いわゆる「わかりやすい」とされている説明はだいたい、勝手に単純化したり一面的な解説で満足したりと説明が不十分で「わかりやすい」だけのしょうもないものが多くて辟易してしまいますが。
でもそれも最近は少しずつ飽きられてまた流れが変わってきたのかな、と。
それに割と本質を変えることなく本当にわかりやすく解説してくれる人や本も少しずつ増えてきているようですし。
そう思うとよい変化もわるい変化もいずれはいい方向に進んでいくと信じてとりあえず変化を肯定するという革新の人々の考えも一理あることなんですかね。
私は小心者なのでなかなかその域には行けない気がしますが、あまり細かい変化に一喜一憂するのはやめようかと思います。
さて、話が逸れにそれたけど、J-POPの次にはどんな時代が来るのか、誰がそれを担っていくのか、楽しみですね。

2017年3月13日月曜日

このごろ思うこと

結構いろいろな本を読んで
映画やアニメ、ドキュメンタリー、バラエティにトークショーといろいろなTV番組を眺め
あまり触れたとのない分野の雑誌や音楽に親しみつつ
家族と散歩したり昼寝したり日向ぼっこしたりと充実した御隠居ライフのような日々を過ごしてきたわけですが。

ここらで自分のこと、世界のこと、時代のこと、何でもいいけど思っていることを漠然とまとめておきたくなったのでそうしようと思います。

まず、わたしにとって何が大切で残りの人生で何と向き合って生きていくのかということ。
大切にしているというよりも、当たり前にそこにないと困るものとして健康と家族、それに言葉と音楽といったものがあるように思う。
健康についてはちょっと前に風邪を引いて今もまだ全開とはいかないけど、体が弱ると心も弱る。
元々気分屋なところもあるのでなおさら、体が健康じゃないとすぐにくよくよしてしまう。
体力づくり・健康の源はよく寝てよく食べて適度に運動をすること。
他にもいろいろとプラス事項はあるけど、最低限この3つには気をつけていこうと思う。
次に家族。
なんだかんだ言って一番お世話になっていて、迷惑をかけられて、面倒だけどなくてはならない存在だな、と自然と思うようになった。
前は友達の方が大事!と思ってたけど、今でも勿論大事だと思うけど、実際、ちょっといろいろなものと距離を置いて、友達とも会ったり連絡したりしなくなってしまったけど、別にたまに懐かしく思うし会いたくなるけど、友達ってオプション的なものでマストではない気がする。
でも家族は離れがたいし、離れていてもいつでも存在を気にしているというか。
程度の差でもちろん、友達のことは頭の片隅にあるし、向こうもそうだと信じてるけど。
言葉というのは自分に割合固有の関心事だと思う。
日本語に関心が強いし、他の言語についても興味は強い方だと思う。
言葉の可能性に惹かれるというか、日常の会話や文章というよりは、小説、戯曲、演劇、落語、詩、歌、評論、等々のことばの魅力に惹かれるし、自分もそういう作品が持つような言葉の力を何らかの形で表現したいと思う。
それがどんな形なのかはちょっとわからないし、ちょっと頑張っただけで叶うような目標だとも思ってないけれど。
音楽については基本的に受動的に。歌うのは好きだけど別に得意でもなんでもないので、歌を聴いたり演奏を聴いたり、結構学問的な頭なので作曲の理論とかは勉強してみたいと思うけど、それも曲を作りたいというよりは音楽を別の角度から楽しみたいという気持ちから。
音楽と感情はかなり密接につながっていると思っていて、(たぶん自分の中で最初にそれを指摘したのはドラえもんのワンシーン。押しつけがましくなく説得的な、教育的に優れた漫画だった。)音楽を日常的に聴いていたら精神的に落ち込むことはあまりないのではないかという気がしている。
うちの家族はあまり音楽が好きじゃなくて、五月蠅いと言われることが多いのでひとりのとき以外は抑えめにしているけれど。

と、自分のことはこの辺で終えようと思うけど、思いの外長くなってしまった。
世界と言ったけど、世界について思うのは、世界について語ることができる人というのは世界に何人いるのだろうということ。
偉そうなジャーナリストや学者が世界や時代について提言や現状報告をしているけれど。
どれも一面的で浅い理解に立ったものに見える。
語りえぬものについては沈黙しなければならない、などと言っていると何も語れず現状を追認するばかりになってしまうというのもまた事実なのだろうが、それにしても言葉の軽さが目立つように思う。
権威ある人がわからないことについてはわからないと認め、詳しい人を見つけ出してその人に頼るということが自然になされるようになれば、もっと有益な情報が色々と示されるのではないかと思う。

本当はもっと考えるべき課題が自分にはあることは理解しているが、それについてはあまりに個人的であり秘匿されるべき類のものだと考えるので、この場ではここで一端筆をおくことにする。

小林秀雄賞

何というか、統一感がない。
小林秀雄が生きていたとして評価する類のものはいくつあるだろうか、とか。
小林秀雄賞作家(と仮に呼ぶことにする)同士でリスペクトしあうことは可能なのか、とか。
前者については他の多くの文学賞についても同じだろうが、後者の問いが自然に出てくるのはなかなか珍しいのではないか。
対談ものっぽいもの(小澤征爾・村上春樹「小澤征爾さんと、音楽について話をする」)まで選ばれているのは懐の広さをたたえるべきなのか節操のなさを嘆くべきなのか、いずれにせよ変った賞だと思った。
発表媒体だった「考える人」は休刊が決まったようだったけど、今後この賞はどうなるのか少し気になるところ。

小林秀雄賞 過去の受賞作品
http://www.shinchosha.co.jp/prizes/kobayashisho/archive.html



2017年3月10日金曜日

演出術―蜷川幸雄

演劇の言葉には何か、言葉では説明できない力を感じる。
考えてみると言葉というのは元々、話し言葉であり、小説や論文が人々に受け入れられるよりもずっと前から、演劇という言葉のあり方は存在していた。
そうした長い歴史のなかで、役者たちが、演出家たちが、そして観客たちが一体になって追求してきた何か。
それこそが演劇の力なのかもしれないと思った。

惜しまれつつ亡くなった稀代の演出家、蜷川幸雄のインタビューをまとめた本。
彼の言葉を聴いていると(読んでいると)シーンが目に浮んだり、心が動かされたり、強い言葉の力を感じる場面が多かった。
長年、演劇と体当たりで向き合って来た人だけに、演劇の持つ混沌とした力が本人にまで乗り移っているのだろうかと半ば本気で思った。
一度講演会を聞いたことがあって、そのとき以来ファンを自認していたものの、結局生の舞台を見る機会は失ったまま逝かれてしまった。

2017年3月4日土曜日

目標

軽いものから重たいものまでいろいろと本や雑誌を渉猟していると、結構現実的な知恵というものは馬鹿にできないと思うことがある。
ファッション誌でモデルさんが目標を20個とか30個ばっと列挙して○○歳までに叶えるぞ!と力瘤を作っていたりするけれど、ああいうのも実はかなり大事なことなのかもしれない。
ということで目標を10個くらい考えてみたい。

・とりあえず今月で200冊くらい本に触れる
・日本語について古典・外国語との絡みで理解を深めてみたい
・将来につながる形で仕事と向き合ってみたい
・10年後の自分の姿をもう少しクリアにイメージしてみたい
・そろそろ健康と体力に気を遣うべきかもしれない
・ファッションとか芸能とかあまり縁のない世界にも目を向けていきたい
・洋書を月に1、2冊くらいは読破したい
・何か人の目に触れても問題ないレベルで論稿を定期的に書きたい
・短歌でも現代詩でも歌詞もどきでも何でもいいけど何か詩作を試みてみたい。詩人を理解するためにも
・小説か脚本を書いてみたい。上に同じ。

たぶん、何も言わないよりは言った方が前向きだし、言うだけよりも実際に格闘した方が前向きなんだろう。
最後のとかは生涯実現するかわからないけど、意識の片隅にはなるべく置いておくことにしよう。
最初のもの以外は全部言い切れずに煮え切らないかたちになってしまったけど、最初だし仕方ないのかな。
もうちょっと具体的な目標を挙げられるように意識を持って行ったほうがいいのかもしれない。

2017年3月3日金曜日

江藤淳全対話1~4

江藤淳という人は生まれながらの批評家のような人だったと思う。
今の時代に批評家が存在するのか疑問に思うのは、彼を念頭に、その水準を想定してしまうことがその原因かもしれない。
しかし彼の生きた時代にはたしかに批評が存在した。
小林秀雄、福田恒存、河上徹太郎などとともに江藤淳がいた時代に自分も生きていたら楽しかっただろうと思うと残念だが、かえってこうして先達として仰ぎ見ているくらいが平和でいいのかもしれない。
中でも江藤淳の言葉は綿密な準備と緻密な論理に裏打ちされた重みのある発言が多い。
2巻の頭に収録された大江健三郎との対談が何とも言えず印象的だった。

2017年3月2日木曜日

青い鳥―メーテルリンク/江國香織

チルチルとミチルの冒険と言えば、多くの日本人が親しんできた物語。
戦前世代がワクワクと目を輝かせて語る傍らで、私たちはたしかにいい話だと思うけどちょっと古臭くて…と言い出せずにもやもやした気持ちを募らせてきた。
…柄にもなく「私たち」を騙ってしまったが、少なくとも自分は、そういう思いをそっと押し殺す場面を一度ならず経験したように思う。

そんな中、満を持して登場したこの新訳を前に、ついに祖母が語るワクワクを自分も体験することが出来た気がする。
ハラハラドキドキ、冷や冷やしたりわくわくしたり先が気になって早く頁を捲りたくて気が急いて、でもまだずっとこの世界に浸っていたくて読み終わるのが惜しい。
久しく覚えていない子供の頃の時間を忘れて本を読んだ感覚が甦るようだった。

ティルティルとミティルの不思議な冒険に、貴方も一緒に出掛けてみてはいかがですか。