2017年4月7日金曜日

名言集

omnia vincit Amor et nos cedamus Amori.
恋は万物を打ち負かす。だから我々も恋には譲るべきだ。
―ウェルギリウス『牧歌』10番

se cupit imprudens et, qui probat, ipse probatur.
dumque petit, petitur partiterque accendit et ardet.
彼は何も知らずに己を欲する。
そして褒め称える自分自身が褒め称えられる。
彼は求める一方で求められ、
燃やすと同時に燃え盛る。
―オウィディウス『変身物語』第3巻

sit tibi terra levis.
土があなたにとって軽くありますように。
―埋葬に際して述べる祈りのことば

libera te primum metu mortis: illa nobis iugum imponit;
deinde metu paupertais.
si vis scire, quam nihil in illa mail sit, compara inter se pauperum et divitum vultus;
pauper saepius et fidelius ridet.
君を死の恐怖から解放したまえ。死は我々をくびきにかける。
次に貧乏の恐怖からだ。
もし君がどれほどにまで貧乏に悪が存在しないかを知りたいと望むなら、貧乏人と金持ちの顔つきを互いに比べてみたまえ。
貧乏人のほうがはるかにしばしば、人を信じきって笑う。
―セネカ『道徳書簡』
(逸見喜一郎『ラテン語のはなし』より)

テクストの意味を真に理解してもらうには、少なくとも60年は待たなくてはならない。それが、年来の学説史研究を通じて得ている、私の実感である。何かを書いて、同世代人に理解してもらうのは、それほど難しい。「原作」を虚心坦懐に読んでくれるのは、まだ見ぬ先の後輩たちである。そのとき作者はそこにいない。

「今日吾々の見るものは、レオナルドォが画いた上を、湿気と抹草とが怖るべき加工を為したものであり、レオナルドォが筆を措いた日の現状は、如何なる人も最早再び見ることは出来ない」
「遠い昔にレオナルドォが画いたものを、今、吾々が見ると言うのは、この無限なる絵画の意味の同一性を確信することである」

「問題は、その偉大なる画家が、レオナルドォと言う名を持っていた人であるか否かではない。この偉大なる絵画を画き残した画家があることである。それを疑い得ないのは、如何なる歴史的知識に拠るのでもなく、自分が夫れを見るからである」
「この絵をレオナルドォが画いたと言うのは、吾が表象としての視覚的意味を過去に返して考えるのである。過去とは然し、客観化せられた意味の意志である。之を名付けてレオナルドォと言うのである」
―植田寿蔵「原作と複製」(1930年刊)
(石川健治「レオナルドォ」法学教室2013年6月号巻頭言より)

―「私」という言葉がある以上、それが意味するものはあるでしょう。しかしいまの「私」と昨日の「私」が同じ「私」であることを証明することは原理的にできない。
―「私」という言葉の意味を支えているのは、「私が私である」という記憶と、他者が私を私とする認識が一致したまま持続していることだと思う。そういう条件を解体して、たとえば坐禅のように極端に自意識の水準を落とすこともできますが、そのときでさえ何もないわけではない。何ごとかが起こっている。
 もうひとつ別のアプローチをするならば、「私とは何か」と問うときには、その問いを問う主体が残っている。その主体は何かと問うと、こんどは「「私とは何か」と問う私とは何か」という問う何か……という話になって無限遡及に陥る。
 結局、「私」という言葉が意味する何かは、いつまでいっても確定せず、言語の外へ流れだしていってしまう。それは、もはや存在するとかしないとかという言葉が届かない領域であり、理論のなかに引きこめない。この状況は「無我」としか言いようがないと考えるのです。

―なるほど。問う主体、観察する主体の無限遡及のことは私も考えることがあります。最終的にそれが問題にならないのは、キリスト者は「神の前に立つ私」というところに足場を据えるからでしょう。神が私を知ってくれているということですね。お話を聞いていて、そう思いました。
(南直哉・来住英俊『禅と福音』2016年刊より)

◯×△どれかなんて 皆と比べてどうかなんて 確かめる間も無い程 生きるのは最高だ あまり泣かなくなっても ごまかして笑っていくよ 大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない 大丈夫だ この光の始まりには 君がいる
【ray】BUMP OF CHICKEN

誰かの掲げた旗を 目印にして 大人しく歩くけど 作った旗も隠している このまま終わるものだってなんとなく悟り 笑って歩くけど 作った旗が捨てられない
【Butterfly】BUMP OF CHICKEN


哲学っちゅうのは「なぜ生きるんか」とか「善とはどういうことなんか」とか、人間なら誰でもぶち当たる疑問に答えてゆく学問ですよね? 近所のおばちゃんおっちゃんにもわかるように話をすることができて、納得してもらえる。それがほんまの哲学っちゅうもんやないでしょうか。哲学の祖と言われるソクラテスさんの残した言葉がこんなややこしいままやとあかんのではないでしょうか?
(「前口上」プラトン著・北口裕康訳『関西弁訳 ソクラテスの弁明』より)

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