2017年5月31日水曜日

新生活日誌

いろいろと新しいことがあって、日々それに順応することに追われている。

人と関わると楽しかったり苦しかったり、色々な感情が芽生える。
自分を相対的にとらえ直す契機になって学びがある反面、リズムを崩されて立て直しに手間取ることも少なくない。
人と楽しく過ごすのは好きだけれど、基本的にはひとりか家族と過ごすのが落ち着く。
友達と会うにしてもまとめて数人と会うよりはひとりとじっくりと会って共に時を過ごしたい。
早く結婚したいと子供のころから思ってたけれど、現実にはそんな素振りも見受けられない。
たまに思い出したように縁結びの神様にお参りしてみるけれど、本音では子供は早くほしいけど結婚はまだいいかな、とか訳の分からないことを考えている。

最近なんだか内省的なことばかり書いている気がする。
忙しいからだろうか。
暇なときは何か精一杯やったことを並べ立ててみせて、忙しくなってくると日々の記録はさておき内面世界に籠る。
何だか変な気がするけれど、まさに偶成というか徒然なるままに現れてくる文字の羅列が何を表していくか、自分でもよくわかっていない部分があるので仕方がない、とよくわからない弁解をしてみる。
本格的に寝ぼけてきた気がするのでこの辺で筆を措く。

基本的に人生楽しく過ごしてるので上の文章が明るいのか暗いのか健康に見えるのか病んで見えるのかよくわからないけど、心配しないでください。
あと明日(今日)は朝が遅いのでそちらも同上。

そういえば最近、縄跳びとテニスの壁打ちを始めました。
そのうち腹筋と上半身を鍛える筋トレも始められたらと思ってるけど、トレーニングのためのトレーニングはあまり好きじゃないので始める前から長続きしない気がします。
何か自然に上半身と腹筋が引き締まるスポーツがあったら教えてください。

何だかどんどんとりとめのない話になってしまった。それではおやすみなさい。

2017年5月26日金曜日

自己紹介の註釈

某所にてプロフィル欄を少しいじってみました。
といっても今回は末尾に文を追加しただけです。
自己紹介文というのはそれほど滅多に描くものではない割に何かの拍子に加筆訂正されて消えて行ってしまう運命を辿ることが多いので、転載して時点での自画像を保存しておくこともたまにはいいのかな、と思って実行している次第。
どうせなので少し註釈的なものも付していこうと思います。

>ことばに自覚的でありたい。

元々この一文だけで済ませていたものを膨らませていったのが今の文章ということになります。
言葉ではなくことば、意識的その他ではなく自覚的という言葉、―になりたいではなく―でありたいとした表現、一応すべて意識的に選択したものです。
言葉は時に大きな力を持つ。プラスにもマイナスにも働きうるそうした力を、自らのことばについて自覚すること。
時に自分の意図を超えて人々に届き、受け止められ批判されることを認識した上で発信すること。
そうした自戒を込めた言葉です。
とは言え、配慮ばかりで八方美人的にことばを用いては人々の心に届く言葉はあらわれてこないし、自分にも言葉にも失礼な態度だと思います。
そういう訳で出来うる限り自分のこころに素直なことばで、それでいて人々のこころに適切に届くように、発信していけたらあらまほしきことだと思いつつ日々ことばと触れ合っています。

>読んだ本の気ままな記録と本好きの人々との交流の場として。
政治と法、経済のあたりの社会科学がメイン、サブ的にいろいろと興味を持って読んでいる感じです。
でも原点に立ち返ると、本当に関心があるのは人の心と社会や国のあり方だったはずで、社会科学はその道具のひとつだった気もします。
最近の興味は政治外交史と日本政治思想史が中心みたいです。
よろしくお願いします。

これは読書の記録サイトの自己紹介なのでこういう文になっています。
いつの間にか社会科学という曖昧な枠にとらわれていたこともあったけれど、元をただせば意味のないこだわりだったな、と反省しつつ書いた記憶があります。
広い意味では一貫性を持って本の数々を渉猟しているつもりですが、なかなかそのつながりを他人に理解されることがないのは自分の力不足をふくめて少し残念に思います。

>最後に思い入れのある著者/作品の名前を列挙しておきます。
似た興味の方いらっしゃったら仲良くしてくださるとうれしいです。

・漫画
ちはやふる 末次由紀
ドラえもん 藤子F不二雄
四月は君の嘘 新川直司
あさきゆめみし 大和和紀

・評論
小林秀雄、河上徹太郎、吉田健一、福田恒存、三島由紀夫

・学問
木庭顕(ローマ法)、苅部直(日本政治思想史)、坂本多加雄(日本政治思想史・日本政治外交史)、石川健治(憲法)、長岡亮介(数学)

・演劇
蜷川幸雄、山崎正和、福田恒存 他

*小説はいつの間にかほとんど読まなくなってしまいました。何か劇的に面白い小説に出会って価値観が揺さぶられることに期待…

こちらも読書記録サイトなのでこういう風になっています、と。
こちらはつい最近付け足しました。
よく読み登録している著者と自分が好きな・尊敬している著者が必ずしも一致していないことに気づいたのでそのずれを埋めるために置いたものです。
末尾に書いた通り、最近では現代小説を読むことはほとんどなくなってしまいました。
何か魂を揺さぶるような、圧倒的な小説との出会いがあるといいのですが。

と、少しは自らに深く迫る自己紹介になったのではないかと自負するのですが、いかがでしょう。
もっとも、どれだけの人が〈私〉に興味を持ってくれるかわからない部分もあって自己満足に過ぎないのかもしれません。
自分のことばの特色のひとつとして自覚しているもので、同じ言葉を連続して用いる一種のことばあそびを好むというものがあって、この3文だけで7回<自>という字を使っています。

以上、自己紹介とその註釈という名の自己紹介でした。

2017年5月24日水曜日

忙しい日々

珍しくあちこち出掛けて忙しい日々を送っている。
とは言え振返ってみれば、だいたいもっと忙しく過ごしていた時間の方が長かった気もする。

最近はほぼ毎日のように、これからの人生どうしようか、という類の重めのテーマを割と軽い気分で、でもだいたいいつも考えあぐねていることが多い。
何かいいことを閃いた!と思ったときはだいたい後から冷静に見ると論外だったりするので、結局光がなかなか見えない森の中の小径をさまよっているような状態が続く。

色々考えていると、やっぱり今までやってきた学びを何か直接的に仕事に結びつけることは難しい―実現可能性が高くない上に、今後の人生を想像してみて実現した際の幸福度を予測するとあまり芳しくない―という気がしてくる。
となると自然、何らかの方向転換ないし方針転換が必要になってきて、今はその方向性について一応出した結論について、本当にそれでいいのか、後で後悔しないか、他の選択肢で検討すべきものはどういうものがあるか、色々と洗い出していることになるかと思う。
そうした未来への投資と並行して今を生きていかないといけないので時間の使い方がなかなか難しい。

今のことだけに集中して未来のことを疎かにするのは危い。
未来のことばかり想像して今を疎かにすると未来への道を前に進めない。
難しい舵取り。バランス感覚が必要。

とりあえずは自分の感覚を信じて「充実感」とか「虫の知らせ」とかを頼りにベストな在り方を探っている感じ。
あまり論理的に考えて結論が決まるタイプの事柄でもないと思うので。

…こうして言葉にしてみると見えてくるものがあって有益な面もあるのだけれど、他人の目に留まるところでする作業ではなかった気もする。

「原敬日記」「土佐日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」「牧野伸顕日記」など色々な日記文学・資料を読んで色々と得るものがあったので、もしかしたら読む人にも意味のある時間になるのかもしれないと一抹の期待を抱きつつ、今回はこのあたりで失礼しようと思います。

でもしばらくは単調増加でやることが増えていくことになりそうだなぁ。
本当に効率的な生活に努めないと虻蜂取らずになりそうで怖い。

2017年5月19日金曜日

蜷川幸雄1周忌 ①ジュリアス・シーザー

蜷川幸雄演出のジュリアス・シーザーの舞台を近くの映画館で上映しているということで、せめてこの機会に見ておこうと思い行ってきました。

あまり演劇に詳しくないので何か言うのはちょっと怖いけど、気にせず感じたことを記録しておこうと思います。
万が一関係者の方の目に触れたとしても、妙なことを書いていても見逃してください。
もしあまりにも変なことを書いていたらコメント等で指摘していただければ訂正します。

さて。
・演劇とは声と歩き方の芸術だ
舞台が基本的に階段状になっていて、そこを人々が自由に歩いている場面から始まるのですが、その後も登場人物の歩き方がそれぞれ特徴的で、おそらく人格等と直結しているのだろうと思いながら見ていました。ブルータス役の阿部寛は静かに音を立てずに歩くのは慎重さと冷静さの表れで、対照的に吉田鋼太郎のキャシアスは音を立ててドタバタと歩く。もちろん他にも呼吸や立ち方、細かい仕草などいろいろと注目すべきことはあるのだろうけど、一番目立ったのは歩き方の個性でした。従者の少年がタッタッタッと軽やかに駆け上がっていく様は初々しくて可愛らしかった。
声に関しては異論はないだろうから特に説明しない。やはり同性よりも異性の綺麗な/迫力のある声の方が魅力的に響くような気がする。

・演説の魔力
ブルータスの演説後の空気をアントニーが美辞麗句を駆使しつつ巧妙な誘導で180度転換させてしまうのが有名なクライマックスで、そのシーンは流石に見事な出来だった。
その場面を引くことは出来ないので代わりにと言っては何だが、シーザーではなく蜷川幸雄の追悼演説(弔辞)を引いておく。

・男って…
シーザーは妻の懇願を聞かずに己を過信して、結果死の運命を辿ることになる。
ブルータスは妻の懇願に負けて計画を教えてしまった結果、秘密の重荷と夫への心配から妻は錯乱状態の中で死んでしまう。
古代ローマという時代背景もあり、女は基本的に従属的な立場に置かれているものの、(少なくとも当時の感覚からすればおそらく;シーザーの妻の心配は主に今であれば迷信に属するが当時の人々にとっては現実だったことは描写から明白)現実的な思考から夫を心配し諫めるのに対し、男は自分への信頼や理念的な発想からそれを退けてしまう。
結果として2人が仮に女に従っていれば、悲劇は生じなかっただろう。
しかしまた、そうした態度を取らないことこそ、悲劇の主人公たる要件だともいえる。
悲劇とは己の力を信じ、神をも恐れず勇敢に物事をなそうとしたものの力及ばずに悲しい結末を迎えた者たちの物語だと、どこかで聞いたような気がする。
そうして考えてみると、2人とも悲劇の主役たる資格を十分に有しているように思う。
ちなみに小者として描かれるキャシアスはブルータスにアントニーを殺せ、そうでなくても演説を許すなと、何度にもわたり忠告している。こうした現実的で慎重な態度こそ、キャシアスがこの劇の主役たりえない一番の理由かもしれない。キャシアスの疑い深く狡猾でありつつ粗暴で激しやすいというパーソナリティはやや奇異にも感じたが、考えてみると一般的な人間の男というのはそういうところのあるもので、むしろシーザーやアントニー、ブルータスの方が常人離れしているのかもしれない。

・ブルータス=オバマ?
なんとなく阿部寛の演じるブルータスが途中から、理念的な綺麗ごとばかり言って人気を博したアメリカ合衆国のオバマ前大統領と被って見えるようになった。別に彼を揶揄する意図はなかったと思うが元の公演が2014年10月ということで時期的には被っていて、もしかしたら演出家の頭の中にそうした対比もなくはなかったかもしれない。

・最後にひとこと
言葉の力をまざまざと見せつけられ、その素晴らしさと怖さの両面を体感した時間だったように思う。一時の高揚に過度に引きずられることなく、一歩引いた冷静な視点を忘れないことが大切だ――などと口にすることは容易だが、おそらく行うことは非常に難いのだろう。
アントニーの藤原竜也、本当にかっこよかったです。

2017年5月15日月曜日

最近思うこと。―映画 ダ・ヴィンチ・コードを聴きながら

一応<あなた>の眼を気にして書いているとは言っても、だいたい独り言のようなことしか言わないのであまり他人の眼を意識していると言えないかもしれない。
それとは別に毎度だいたい頭の中をリフレッシュしていて、と書けば聞こえがいいが前に何を言ったかほとんど忘れた状態で綴ることが多いのであまり整合性も取れていないかもしれない。
とはいえそのときどきの気持ちに嘘はない形で言葉を積もらせていっているので、総体として読んでもらえればあるいは<わたし>という人間のありかたが解読できるものになっているのかもしれない。

さて。
最近思うこと。

・同時代の優れた、あるいは気が合う人と出来るだけたくさん交流/交友を持つにはどうしたらいいのかと考えることがある。
人は孤独で生きていけない、とはよく言われることだが、数だけ揃えればどんな相手でもいいという訳ではない気がする。自分の評価軸において優れていると思える人物、尊敬できる人物、一緒にいて気が休まり互いに励まし合えるような人物と関係を深めたいものだと思う。

・渡部昇一氏が亡くなって。何だかいつまでも仙人みたいに生き続けていきそうな人も、やっぱり死ぬんだなと思った。尊敬する演出家の蜷川幸雄も昨年亡くなった。
平川祐弘とか山崎正和とか高齢で存命の優れた方々は結構多くて、たぶんほとんどの人とは実際に会って話をしたりする機会はもうないと思うけれど、何か同時代をこうして生きているからこそできることはないのかと思う。たとえば著書の感想を丁寧に綴って手紙を送ってみるとか。

・マクロン仏大統領は39歳だという。自分とはだいたい10年くらい歳が離れていて、10年という差をどう捉えればいいのか実は自分の歳だとまだよくわかっていないところがある。
第一印象はやや軽薄な感じがしてあまりよくなかったけれど、聞こえてくる評判はそう悪くない様子。政治家としての力量はおのずと知れてくるだろうが、それはそれとして自分は10年後、どのような人格で何をなしているのか、何が出来るのかと思わされる。自分も政治家になりたいわけではないが政治に関心を抱く者として、また同時代を10年差で走る者として、フランスの大統領に40歳前の人物が就くということはとても大きい意味を持つように感じる。

・未承認国家について
2014年頃の法学教室に慶応SFCの廣瀬陽子氏によるロシアのクリミア編入に関する記事が載っていて、なかなかよくまとまっていて面白かったので著者の本を何冊か読んでみた。
NHKから出ている未承認国家についての本が面白かった。
よく世界には~ヵ国あって、という話をするとき、国連加盟国を「ひとつの指標として」用いるけれど、北朝鮮や台湾といった身近な国(あるいは地域)を考えただけでもそれが相対的なものにすぎないことがわかる。
そして旧ソ連やアフリカなど世界各地には「未承認国家」という国家と認めるべきかどうか問題になっている主体があり、その存在は無視しえないという話。
古くは日本と満洲国の関係もこの括りに入るのだろう。

・哲学と数学、思想史と数学
理系の人が書いた文系的な話題の本と言うのはなかなか興味深いことが多い。
本の感想は基本的に別所にすべて記しているのでここでは書名等に触れないが、数学者の書いた経済や思想史に関する記述や哲学者と数学者の対話など、ここ数日で触れた文章に強い知的刺激を味わった。

・海外で活躍している若手研究者というのは想像以上に多いのかもしれない
若手、というのは本当に若い、30前後の人とか。大学の同期でも少なくとも一人、同じ学部から海外で研究職に就いた人がいる。例外的なものかと思っていたけれど、特に経済系を中心に予想以上に多くの人が海外で活躍されている様子。頭脳流出を嘆くべきなのか優秀な人が世界(と言いつつ大体アメリカという気もする)における日本のプレゼンスを高めてくれていると称賛するべきなのか、個人の選択として素直に受け入れるべきなのかわからないが、単純な感想としてはそれだけ高い能力を発揮し努力を怠らず狭き門を潜り抜けて第一線で活躍する同世代や先輩たちは素晴らしいと思うし羨ましい。とはいえ自分はその波には乗り損ねてしまったので、自分の<位置>を慎重に見極めてふさわしい役割を演じていきたい。

・人生は長いような短いような
祖母が少し体調を崩した。元気な人でもう快方に向かっているが、年齢が年齢だけに色々と考えてしまうこともある。翻って自分のことを考えてみても、人生がせいぜい100年だと仮定して歳を経るごとに1年の価値/(主観的)長さが減じていくものだとすると、たぶんもう人生の体感的な時間としては過半に達してしまったのではないかと思う。また、時計的な時間においても普通に生きて3分の1は過ぎたことになりそうだ。
人生の意味はきっと人それぞれで、誰もが納得するような人生の意味などないのだろうと考えるに至ったのがひとつの成長なのかもしれないが、これから先の人生、何を学んで何をしてどう生きていくのか。色々な本を読んだり散歩というにはやや負荷の高い運動をしたり音楽と触れ合ったりしつつ考えていることが多い。どうせ結論など出ないだろうと、最善は脇に置いてとりあえず次善に向けて行動していこうと考えているあたり、やはり少し大人になったのかもしれない。そういう訳で、今は体力向上と健康増進、言語習得といった人生の基礎固め的なところに力を注いでいる。

相変わらずとりとめのない話題でタイトルに困るが、とりあえずここで筆を置くことにする。

2017年5月10日水曜日

私から私へ

差支えない範囲で少し自分語りをしてみようと思う。
上手くいくかわからないし気に食わなかったらすぐに消すかもしれないが、少しだけお付き合い頂きたい。

私は昔から、あまり同世代の輪にあまりうまく入れない子供だった。

と、こう書いてみて一人称にあまりピンと来ていない自分に気づく。
基本的に話言葉では一人称をあまり使わないようにしているが、書き言葉で正確性や誤読可能性を思うと(一)人称が要求されることがある。
そのとき語り手として選択する人称は本当は「僕」を用いたい気持ちがあるが、「僕」としてしまうと少年ないし青年期の気取った人格を想起させてしまい、男女を問わない中性的な語り手が用いる人称としてはやや不適な気がする。
同様の理由で文章において「俺」や「小生」その他の一人称を使いたいとは思わない。
ということで想定される人格の広い「私(わたし)」を用いることになるのだが、この「私」は日常における普段の「わたし」とはある種別個の人格として「語り」を担当しているので、普段の「わたし」と同じ音の「私」を用いることにも抵抗があるのかもしれない。

話が逸れた。

多分それで多くの本と向き合うことになったのだが、本とばかり接していると自然と同世代の一般的な興味と自分の興味があまり合わなくなっていく。
もちろん異世代にも自分と同じ興味関心の人はさほどいるわけではないのだが、元々「違う」ことが想定された他者との関係は、同質性が想定され自分もまたそれを密やかに期待している同世代との関係よりも楽なものだったのだろう。

もちろん同世代の友達のことは大切に思っていたし、良好な関係を築けるように努力もしていた。
ただ、どこか腹を割って話せない、本当に話したい類のことは腹の底に押しとどめて表面的な会話に終始しているような感覚を抱えていた。
そしてそのまま大学に進学し、一縷の望みを掛けていたそこでも状況があまり変わらないことに絶望的な想いに囚われた。

結局のところ、人はそれほど深く共感し分かり合っている訳ではないのかもしれない。
そう気づいたのはごく最近のことで。
それまでの自分はいつも、自分だけが世界の不幸を背負いこんでしまったような空虚を幸せの陰に抱えていたように思う。
冷静に見れば、或は他人が似たようなことを言っていれば、僕だって馬鹿だなと笑うと思う。
でもそのときの僕には、世界の何よりも重要な問題がそれだった。
たぶんそれくらい幸せで、その幸せの大切さに気づけなかったんだろうと今なら思うけれど。

何でこういうことを語りたくなったのかは上手く説明できない。
ただ、きっかけは旧友―同世代の中ではそれなりに気が合って色々と世話になっている―からの連絡であることは確かだと思う。
今の自分は比較的世界に絶望せずに自分に過度な期待をかけて疲弊せずに楽しく過ごせていると思うけれど(主観的な満足)、外から見れば昔の苦しみの中にすり減らしていた自分の方が或は上手く折合をつけて賢く生きていたように見えていたかもしれない(客観的な評価)。
今後の課題は自己評価と他者評価を徐々に近づけていくことが必要なのかもしれないと思っていて、それは内面的な意味合いでもそうだし、社会的な意味でもそうで、要するにもっと外面的にも人生の成功者を目指していこうということ。
本の中に沢山の―うまく呼称がみつからないけれど―友人、先達、仲間、を見つけることが出来たことは、今まで生きてきた中での貴重な財産だと思うけれど、これからはそうした存在を大切にしつつ、同時代の人々との関係性において自分の価値を、位置を、ひとつひとつ築き上げていかなくては。

と小難しい表現で煙に巻いてみたけれど、要するに人よりも10年くらい大人になるのが遅れているんだろうと思います。
最近やっと色々と、昔同世代の友達が興味を持ってた内容に興味が湧いてきたり、やっと自分の中で中心的な興味についての勉強が一区切り出来つつあったり、昔友達に大器晩成という言葉を貰ったことがあるけど、いつまでも未完のまま終わらないようにそろそろ完成を急がないと。

自分に関心を持ってくれる友人はやはり大切にしたいとこの文章を書きつつ色々と反省しました。
ちょっと面倒とか思っちゃったけど、久々に会ってみるかー

2017年5月8日月曜日

過渡期の続く時代~ドラマ ダウントン・アビーを見ながら

古き良き時代という言い方が定型化している一方で、様々な指標から見ると今こそ歴史上もっとも幸福な時代である・あるべきであるという主張がなされることも多い。
しかし幸福が経済的な豊かさその他の合理的な指標のみで決まるものでないことは同時代の富豪と貧しくも慎ましやかな幸せを享受している人々を見比べれば容易に想像できるところだろう。
ある人は、人は社会の変換期、社会構造が変化して生き方の見本がどこにも求めにくい時代に不安が増大して幸福を求めるのが困難になると説く。
この考えはそれなりに説得的である。
そして戦後の70年というのは少なくとも日本人にとっては、また恐らくは世界中の人々にとって、変化に次ぐ変化、転換に次ぐ転換の時代であり、豊かさや新たな価値観が普及してその物質的・精神的な豊かさを享受する一方で、伝統が破壊され共同体のあり方が変わり続ける中で自分と世界の関係性のあり方を1人ひとりが探していくことを強いられ、不安定な状況に置かれていたとも言えるのではないかと思う。
あなたは何をしてどのように生きなさい、と生まれながらに決められている社会というのは、時に理不尽で自由が過少であるが、それを人が奴隷の幸福と呼ぼうと呼ぶまいと、たしかな安定感・安心感があったのも事実ではないかと想像する。
今は逆に、自由が溢れている時代だ。
性の自由、政治の自由、職業の自由、結婚の自由。
自由が溢れるということは、すなわち求められる責任や倫理もそれに応じて高度化・多様化するということだろう。
人々は自由の肥大に精神、行動において対応しきれずに、自由の海に溺れているようにも映る。
戦後という時代は常に変革が続く、過渡期が永続する時代だった。
しかし私が知らないだけで、もしかしたらその前の時代も同様に変化の波が人々を押し流そうとしていたのかもしれない。
ただ、戦後の国際社会は戦前に比較してより一層、国際化の波が強まり、世界標準に合わせた社会変革が進んでいった。
そして今、その行き過ぎが顕在化して逆流の動きが国際的に広がっている。
そうした逆流の波すら国際的なトレンドとして波及してしまうというのは皮肉な話だと思う。

アメリカ合衆国はトランプを大統領に選び、連合王国、イギリスはEU離脱を決定した。
フランスでは大統領はグローバル・エリートのマクロンに決まったようだが、極右と称される反グローバリズムの急先鋒、ルペンが多くの支持を集めた。
新大統領はこうした国内の人々の声を無視することは出来ず、難しい舵取りが予想される。
日本国内にいるとマスメディアも学者も批判的な言説ばかりだが、世界を見渡せば日本ほど政治が安定している国は少ない。
イスラム諸国は不安定でシリア難民の問題もISの問題も解決の目途が立たない。
北朝鮮は挑発的な行動を続け、南朝鮮、韓国は親北・反日と目される候補が大統領に選出されることがほぼ確定的になった。
日本を取り巻く世界情勢はますます複雑化、混迷を強めるようにも映るが、これからの5年、10年、どんな世界が広がっていくのだろう。
不安ばかり書きつけてしまった気もするが、実際のところ期待感も強い。
人が生きていく上で一番大切なものを幸福と捉えたのはアリストテレスだったか別の哲学者だったか。
(たしか臆病と蛮勇の中間に勇気という徳を見出した)彼が言うように正しい道というのは両極端の中間に存在するように思う。
グローバリズムとナショナリズムの中間、というかいい所取りというか、人々の幸福に繋がるような正しい道を世界は見つけることができるか。
ここ10年の大テーマはそのあたりになるのだろう。

2017年5月6日土曜日

友達の唄

BUMPの友達の唄をカラオケで歌ってたらドラえもんの映像と歌詞・メロディがリンクして歌いながら少し涙ぐんでしまった。
そんなに涙もろい方でもないと思うけど、何だか泣けました。

BUMP OF CHICKEN 友達の唄 歌詞

歌詞の引用・転載については著作権との兼ね合いがあって何が可能なのかよくわからない。
ということで検索してみた。

広報Q&A 著作権・肖像権などについて知りたい

歌詞や楽曲は、著作権法上の著作物になります。そのため、歌詞を広報紙などに掲載する場合は、原則として作詞者の許可を得なくてはなりません
音楽著作物については、(社)日本音楽著作権協会(JASRAC)が一括して著作権の管理を行っています。
したがって、JASRACに申請をして許可を得ることが必要です。なお、その際は広報紙の発行部数などに応じた使用料がかかります。
また、「著作権法第32条1項」では「公表された著作物は、引用して利用することができる」として、次の場合の引用を認めています。
その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない
つまり、引用の仕方が上記に合致したものであれば、原作者の許可なしに引用することができるというものです。 
(太字・下線は引用者)
著作権法(32条1項)
公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
「引用」であれば、歌詞を載せてもOK。では、どこからどこまでが「引用」となるのか…。過去の判例等をふまえてみると、
  • 明確区分性がハッキリとしているか
  • 主従関係がハッキリとしているか
という2つのポイントが重要。
明確区分性とは、自分の文章と引用した歌詞を明確に区別すること。例えば、歌詞を「」で括る、出典を表記する、など「これは他の人の著作物からの引用ですよ」と明確にすればOK
主従関係とは、文章の質や量において「自分の文章が主」「歌詞が従」になっているかということ。歌詞はあくまでもサブで、自分の文章がメインとなっていれば、原則として著作権の侵害とはならない。
(以上引用、一部わかりやすい表現に改変)
判例まで参照することを要求されてしまうと優秀な法学徒以外はお手上げなので、簡易のまとめに頼りました。たぶんこの引用は違法にならないと思うのだけど、引用の仕方を学ぶために利用したHPの引用で著作権を侵していたら笑い話にもならない。大丈夫かな。
ということで、主従関係がはっきりとしていて引用であることを明確にしていれば歌詞の一部または全部の引用も可能ということでしょうか。
全部の引用も主従関係・明確区分性を満たしていれば可能なのかどうかはちょっとよくわからないところ。
歌詞サイトでコピペ出来ない仕様にしているのは、許諾を得て引用ではなく堂々と歌詞を著作物として掲載しているものの、他の許諾を得ていない利用者にまで歌詞を無断で掲載されることを防ぐ目的で行っているということでしょうか。
で、本題の友達の唄。
あなたが大きくなるまでに 雨の日なんて何度もある 
その中の一度は一緒に濡れた事 忘れちゃうかな
という印象的なフレーズで始まり、
今 私が泣いていても あなたの記憶の中では
どうかあなたと 同じ笑顔で 時々でいいから思い出してね
今 私が泣いていても あなたの記憶の中では
どうかあなたと 同じ笑顔で きっと思い出してね 
という印象深いサビに繋がっていく。
優しいボーカル・メロディにドラえもん大長編の映像がリンクしていて感動的だった。
と言いつつカラオケなので歌ってたのは自分なんだけど。
何だかわからないけど泣けました。