2017年5月19日金曜日

蜷川幸雄1周忌 ①ジュリアス・シーザー

蜷川幸雄演出のジュリアス・シーザーの舞台を近くの映画館で上映しているということで、せめてこの機会に見ておこうと思い行ってきました。

あまり演劇に詳しくないので何か言うのはちょっと怖いけど、気にせず感じたことを記録しておこうと思います。
万が一関係者の方の目に触れたとしても、妙なことを書いていても見逃してください。
もしあまりにも変なことを書いていたらコメント等で指摘していただければ訂正します。

さて。
・演劇とは声と歩き方の芸術だ
舞台が基本的に階段状になっていて、そこを人々が自由に歩いている場面から始まるのですが、その後も登場人物の歩き方がそれぞれ特徴的で、おそらく人格等と直結しているのだろうと思いながら見ていました。ブルータス役の阿部寛は静かに音を立てずに歩くのは慎重さと冷静さの表れで、対照的に吉田鋼太郎のキャシアスは音を立ててドタバタと歩く。もちろん他にも呼吸や立ち方、細かい仕草などいろいろと注目すべきことはあるのだろうけど、一番目立ったのは歩き方の個性でした。従者の少年がタッタッタッと軽やかに駆け上がっていく様は初々しくて可愛らしかった。
声に関しては異論はないだろうから特に説明しない。やはり同性よりも異性の綺麗な/迫力のある声の方が魅力的に響くような気がする。

・演説の魔力
ブルータスの演説後の空気をアントニーが美辞麗句を駆使しつつ巧妙な誘導で180度転換させてしまうのが有名なクライマックスで、そのシーンは流石に見事な出来だった。
その場面を引くことは出来ないので代わりにと言っては何だが、シーザーではなく蜷川幸雄の追悼演説(弔辞)を引いておく。

・男って…
シーザーは妻の懇願を聞かずに己を過信して、結果死の運命を辿ることになる。
ブルータスは妻の懇願に負けて計画を教えてしまった結果、秘密の重荷と夫への心配から妻は錯乱状態の中で死んでしまう。
古代ローマという時代背景もあり、女は基本的に従属的な立場に置かれているものの、(少なくとも当時の感覚からすればおそらく;シーザーの妻の心配は主に今であれば迷信に属するが当時の人々にとっては現実だったことは描写から明白)現実的な思考から夫を心配し諫めるのに対し、男は自分への信頼や理念的な発想からそれを退けてしまう。
結果として2人が仮に女に従っていれば、悲劇は生じなかっただろう。
しかしまた、そうした態度を取らないことこそ、悲劇の主人公たる要件だともいえる。
悲劇とは己の力を信じ、神をも恐れず勇敢に物事をなそうとしたものの力及ばずに悲しい結末を迎えた者たちの物語だと、どこかで聞いたような気がする。
そうして考えてみると、2人とも悲劇の主役たる資格を十分に有しているように思う。
ちなみに小者として描かれるキャシアスはブルータスにアントニーを殺せ、そうでなくても演説を許すなと、何度にもわたり忠告している。こうした現実的で慎重な態度こそ、キャシアスがこの劇の主役たりえない一番の理由かもしれない。キャシアスの疑い深く狡猾でありつつ粗暴で激しやすいというパーソナリティはやや奇異にも感じたが、考えてみると一般的な人間の男というのはそういうところのあるもので、むしろシーザーやアントニー、ブルータスの方が常人離れしているのかもしれない。

・ブルータス=オバマ?
なんとなく阿部寛の演じるブルータスが途中から、理念的な綺麗ごとばかり言って人気を博したアメリカ合衆国のオバマ前大統領と被って見えるようになった。別に彼を揶揄する意図はなかったと思うが元の公演が2014年10月ということで時期的には被っていて、もしかしたら演出家の頭の中にそうした対比もなくはなかったかもしれない。

・最後にひとこと
言葉の力をまざまざと見せつけられ、その素晴らしさと怖さの両面を体感した時間だったように思う。一時の高揚に過度に引きずられることなく、一歩引いた冷静な視点を忘れないことが大切だ――などと口にすることは容易だが、おそらく行うことは非常に難いのだろう。
アントニーの藤原竜也、本当にかっこよかったです。

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