2017年7月15日土曜日

結婚と義務と違背について

・結婚の起源を辿るとどうなるのか、キリスト教倫理と結びつく以前のことはよくわからないが、一夫一妻制という「文明」が導入されて以降の結婚というのは、人々に様々な義務を強いる堅苦しいものになってしまったらしい、とは渡辺謙の不倫記者会見のぐだぐだの一幕を眺めつつ感じたところ。

・不倫は目に見える形での義務への違背でありパートナーへの裏切りであるが、そうした明白な違反ばかりが罪ではないのではないか、もっと複雑な様相が2人の関係性にはあるのではないか、というのは受験生の個別指導というやや特殊な関係ではありつつも様々な個人と1対1の関係を構築しようと悪戦苦闘する中で感じるところ。
実際結婚した経験がないし結婚生活は千差万別であろうから、ほとんど説得力のない想像でしかないけれど。
個別指導で生徒と向き合っていて思うのは、個々人の能力・性質・考え方・生き方は本当に多種多様だということ。
わかりやすく、生徒が授業時間に遅刻してきたり宿題をやってこなかったり、あるいは講師の側が予定をすっぽかしたり十分な準備をして臨まなかったりというのは非難されるべき明確な義務違反だけど、それだけじゃなく信頼関係を構築する上での正負の要素は細々と存在している気がしている。
結婚となれば他者の眼が届かないところで何年にもわたって築き上げてきた関係性が、その崩壊と共に俄に他者の目前に曝されてあれこれ論評されるわけで、複雑な様相を単純化して語ることに何の意義があるのか、2人のことは2人に任せて放っておけばいいのに、それがプライバシーの尊重という思想の基本ではなかったか、等々思考が空転していく。

・愛から醒めた結婚生活というのは、苦役に等しいのではないか。そこから逃れて他の人と愛を疑似的であれ再構築するというのはそんなに愚かしく非難されるべきことなのか。それで精神衛生が保て、家庭の平和につながるのであれば、少なくとも他人や「世間」がとやかく言う筋合いはないのではないか、とも。

・当然反論がいくらでも可能な隙だらけの論旨だけど、まあそんなことを思ったのでそれをそのまま記してみた次第。
イスラームとかカトリックとか、色々な立場から・あるいはそれを想定しての反論を得ることが出来たらなかなか興味深い学びになりそう。日本の法意識・道徳・倫理感的にはどういうことになるのだろう。

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