2017年1月23日月曜日

言葉の変化と正確さ

言葉について、乱れや変化が指摘される一方で、細かいことを気にするなとばかりに堂々と言葉は変化するものだと主張する人もいる。
言葉の専門家の中にもそういう人はいて、紅白の際に少し話題になった辞書編纂者もそのような立場のようで少し驚いた。
そういうものなのか、と思う一方で、どんな変化も許容するという姿勢は一見寛容に見えて実はただ堕落を黙認しているだけではないかと一抹の不安を覚える。
というのも、英国においてクイーンズ・イングリッシュに相応しくないと判断された言葉が指定されたといったニュースを海外メディアを通して聞いたことがあるからだ。
フランスも言葉については色々とうるさい国だ。
日本は日本、他所は他所だが、日本語はこのままでよいのだろうかと少し気になった。

さて、ことば一般についてはそのような変化に任せるという立場も成立するようだが、専門用語については時代による変遷にはもう少し気をつけるべきではないのではないだろうか。
法律用語はずっと一貫して使われてこそ過去から今に至る法律秩序の変遷を正しく理解することができるもので、そうした用語についてはかちっと定義を決めてそれに沿って使うのがふさわしいと思う。
しかし近年、それも緩んできているような印象があって困惑している。

「冤罪」とは無実であるのに犯罪者として扱われることを指す。
痴漢冤罪などが有名になった。
これは、刑法分野の領域の話であって、これを民事領域で用いるのは少々困ったことに感じる。

先の三浦九段のソフト使用疑惑に関して、ジャーナリストは我先にと三浦九段の「冤罪」を言い募る。
しかし、そもそも冤罪が成立するためには刑法の裁判を経て一度犯罪者として認定されることが必要であって、将棋連盟内部での処分、それも当初の発表では三浦九段が休場届を提出しないがゆえの処分とされたもの、に関して「冤罪」も何もないはずである。
また、第三者委員会の報告書も三浦九段の「潔白」を証明したものと扱われているが、そうだろうか。
三浦九段の不正の証拠が見つからなかったという中身なのであれば、それは三浦九段が確実に不正をしていないこと=「潔白」の証明がなされたとは言えないはずだ。
そもそも「潔白」の証明など法律のレベルでも難しく字義通りの意味での証明は不可能なものだと思うが。

どうも言葉遣いが安易に思われる記事が多い。
細かい話だが、細部に神は宿る、とも言う。
細かい誤りを一つ一つ積み上げていくことで、世紀の大誤報が生まれることも忘れてはならない。
ジャーナリズムには、自分の都合で恣意的に言葉を選択することを控えて客観的な報道に徹することを期待したい。
ただでさえ感情的な脊髄反射の時代と言われる中で、殊更にジャーナリストの側が感情を煽る報道姿勢には感心しない。
気に食わない人や物を皆でよってたかって批判し、その逆は一斉に賛美する。
今の風潮にはどこか安易な全体主義的な空気を感じる。
右翼と全体主義が結び付いて戦前の熱狂が生まれたが、反体制と全体主義の結びつきは何をもたらすだろうか。
無為な破壊のあとで呆然と佇む人々の嘆きの声が聞こえてくる気がしてならない。

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