2017年3月20日月曜日

嫌いという感情

嫌いという感情が明白で、早く離れればいいのになぜかこだわってくっついたままお互いイライラしてしまうような関係って経験したことありますか。
自分は学生時代結構悲惨にそういう状態に陥ったことがあって、今から思うと随分と無駄なことをして時間と心を費やしてしまったものだと思う。
って別にロマンチックな関係でもなんでもなくて、本当に純粋に馬が合わない友人と随分と密にコンタクトをとりつづけてしまったという話なんですが。
あの頃は若かった、と思うのはエネルギーに満ち溢れていて、諦めるという選択肢が出てくるまでかなりの時間と労力を費やさなくてはならなかったこと、そして諦めるという道を選ぶ理由がないと思うくらい、自分の、友人たちの、能力を過信していたこと。

コミュニケーション幻想というものがあって、これが一般的な用語法なのか自分の勝手な用語法なのかわからないけど、「話せばわかる」をピュアに信じていた時期があった。
前にも書いた気もするけど、今の自分の考えを同じように標語的に表現すると、「話せば話すほど違いが浮き彫りになる。その違いを自分も相手も受け入れる度量があると確信できない限り、絶対につきつめて話をするな」といった感じになるわけで、根本は変わってないつもりだけど、結論だけ見ると180度転回してしまった。
どうでもいい脱線をすると、コペルニクス的転回って英語だとCopernicus revolutionで、なんでわざわざ転回なんていう言葉を持ち出したのか少し気になっている。Copernicusの革命、じゃダメだったんだろうか。もしくは回転。転回って…。

久々に東京にいた頃、一緒に住んでいた(さっきも言ったけど全然ロマンチックでも危ない関係でもない)ただの友人たちのことを思い出して、こんな小文を書いている。
昔の自分はかなり衝動的で向こう見ずなところがあって、最近は反省しておとなしくしているつもりだけど、まあそのときも新生活への憧れと友人への勝手な理想の投影をもとにして当時流行りはじめていたハウスシェアに突っ走ってしまったものだった。
数か月で嫌になって実家に出戻りするというしょうもないこともあって、色々と苦い思い出ではあるものの、色々あった学部時代の思い出でもトップクラスに味わい深い思い出でもある。もっとも一緒に暮らしたあの人たちから見たら迷惑以外のなんでもなかったかもしれない。
年に1度くらい突発的に思い出してネット検索してみるくらいで、すっかり没交渉になってしまったけれど。
検索して全然名前が出てこないと大丈夫か気になってキーワードを変えて色々調べてしまう程度には気にしているというか。ちょっと気持ち悪いですかねやっぱり。
多分全員集まることはもうないけど、もし機会があったら腹を割って話してみるとちょっと面白いかもしれないとは思っている。

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