2017年3月23日木曜日

論評論

評論を論ず、論を評するを論ず、ですかね。
まあ何でもいいんですが、山本山的な構造にしたかっただけなので。
普通に言ったら評論論の方が自然なのかもしれないです。

評論という文章のかたちがわからない。
評論とは何なのか。
・類似品との区別
随筆、批評、評論、論説。
この辺りのものの区別からして難しい。
そもそも、批評(評論)・評論(批評)という表記もなされるくらい真ん中のふたつは近いものであるようでもある。
随筆と言えば、エッセイ。徒然なるままに、といった風合いがあって、割合気楽な文章というニュアンスがある。
一方、論説というと、論、論ずるという格式張った印象が強い。何か正しい論の運びというものがあって、それに則って厳格に物事を語るといったイメージになる。
評論や批評というのはその中間に位置づけられ、両者のいいところどりを目指し、ともすると両者の悪い側面が表出しかねない難しいバランスでのかじ取りが要求される高度な営為だ、と言ってもいいのかもしれない。
私は批評と評論は同じではないと思う。
どう違うと明確に示すことはできないが、同じなのであれば2つの言葉がある意味がないではないか。
完全に重なりあう概念だとしたらどちらかが駆逐されて1つに統一されているはずではないのかと思う。
私の個人的な感覚で言えば、批評というと「評価」の意味合いが強く感じられる。
「批判」に近い語感によるものだろうか。批判的に論ずるにせよ、肯定的に論じるにせよ、評価を前面に出して論評するとき、「批評」という言葉がふさわしいように感じる。
一方、評論というと、「論じる」ことに力点が置かれたものを私はイメージする。
もっとも、この辺りは絶対的なものでは全くないだろう。
現に評論にもまさに「評価」の「評」の字が含まれている。

・評論家というもの
評論を考えるとき、「評論家」ということばを避けて通ることは難しい。
評論家とは何かについて一家言を持つ有識者といったものだが、このことばは評論そのもの以上に不可思議なものである。
何についても評論家は存在するようでTVをつけると必ずと言っていいほど目にするが、彼らがしゃべっていることは必ずしも専門家の言とは思われない。
一般人に毛の生えたような人々が評論家として登場することで、どこか本家の評論までが貶められているような印象がある。
評論家を揶揄して「好き嫌いを言うだけで食べていけるいい御商売」などと言った人がいたが、考えてみるとこの言はなかなか正鵠を射ているように思われる。
というのは、優れた評論というのは鋭敏な感性に基づいて物事の善し悪しを論ずるものであって、そこでなされているのは確かに極めて主観的な、物事への個人的な好悪の言明に思われるからだ。
もっともここで私が想起したのは小林秀雄であり、小林秀雄の文章は私の区分では評論ではなく批評になるのだが、評論と批評が等しく用いられている一般の用語法に則ればこの物言いは許容されるだろう。

・評論がしていること―類比による把握
私の評論のイメージは、アービトラージである。
裁定取引(アービトラージ)とは、同一の価値を持つ商品の一時的な価格差(歪み)が生じた際に、割高なほうを売り、割安なほうを買い、その後、両者の価格差が縮小した時点でそれぞれの反対売買を行うことで利益を獲得しようとする取引のこと。 機関投資家などが、リスクを低くしながら利ざやを稼ぐ際に利用する手法です。
世間で埋もれた優れたものを掘り出してきて称賛する、世間で支持されているものの不具合を指摘して注意喚起する。
あるいは骨董収集家のようなものとも言えるかもしれない。
その意味で、小林秀雄が一時批評を離れて骨董に没入していたということは興味深い。
…小林にばかり言及しているが 、それは彼の強烈な個性が私を惹きつけてやまないだけで、評論として見れば河上徹太郎や吉田健一の文章も小林と並んで魅力的な評論だと思っている。
最近の評論は彼らほど刺激的なものが少ない気がするのは寂しいところである。

一応背景を説明しておくと、群像評論賞みたいな賞があって、何か書いてみようかと思ったものの、評論って何だっけっていうところからしてよくわからなかったので少し考えを整理してみようとして書いたのがこの文です。
果たして整理できたのか余計ややこしくなったのかわからないけど、自分にとっては結構楽しく書けた文章なのでよかったことにします。
まあ結局よくわからないことがよくわかったというだけの段階ですが。

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