2017年3月29日水曜日

年度末に

一応、年度末という区切りに来し方行く末を占っておくことも必要かと思って筆を執った。
と言ってもあまり過去を振り返ってみても沈鬱な気分に陥りかねないので過去はさらっと。
この3か月弱、よく本を読んで勉強したものだとまずは自分を褒めておきたい。
実際、こんなに集中的に書物と向き合って勉強をしたのはこれまでの人生を振返ってもそうないことだったと思う。
色々と実りある時間だったけれど、今振り返ってパッと思いつく言葉は為末大の「限界は人々が、自分が、勝手に設定しているだけのものにすぎない」というもの。
手元に著書がないので自分の理解で書いているけれど、そんなに大きく違ってはいないと思う。
陸上の世界で、〇秒の壁とか〇メートルの壁といったものが取沙汰されることは多いが、誰かひとりでもその記録を超えてしまうと、なし崩し的に誰もがその限界を超えてしまうことが多いという。
もちろんそれは単に意識の問題とだけ見ることは出来ず、練習・トレーニングの効率化だったりスポーツ用品の技術向上だったりいろいろな総合力が引き上げられて新たなフェーズに突入したとか、そういう面もあるのだろうが、個人として見ればやはり意識の壁の問題は大きなものと見ていいように思う。
これはスポーツ界に限らず、勝手に自分に限界を決めてしまうことは往々にしてあるので、それは精神安定上必ずしも悪いことと思わないが、そのことに意識的になることまでは、特に弊害もないように思うのでそうした方がいい気がする。
そのあと、アスリートのようにストイックにその壁を超えようとするか壁は壁だとその範囲内で生きていくかはその時々の体調や心理状態、人生観にからんでくるので個人の選択だろう。
自分の場合は割合、やれるところまでやってみたい気もするけれど、結構周りが見えなくなるところもあるので周りに迷惑をかけない程度にとどめておいた方がいいのだろうとも思っている。
他に印象深かった本としては相良亨「日本人の心」、苅部直・片岡龍「日本思想史ハンドブック」、福田歓一「政治学史」、河上徹太郎「有愁日記」、三島由紀夫「日本人養成講座」、藤村シシン「古代ギリシャのリアル」、清水克祐「アメリカ州別文化辞典」、井上順孝編「リーディングス戦後日本の地下水脈6 社会の変容と宗教の諸相」、義江・山内・本村「歴史の対位法」、木庭顕「ローマ法案内」「現代日本法へのカタバシス」、毛里和子「現代中国政治」、末次由紀・あんの秀子「ちはやと覚える百人一首」、「失恋ショコラティエ」、「ちはやふる」、「四月は君の嘘」、「ドラえもん劇場版」など。
他にもいろいろとある気がするが、列挙するのに疲れたのでこのあたりに留める。

4月からの生活としては、当然思い描いていることすべてをここに記そうとは思わないが、ここ3か月のように本をたくさん読むということは難しい気がしている。
緩急をつけることが必要ということもあるし、今どうしても読みたい本は読んでしまったということもあって、今後生きていく中でいずれ読みたい本はきりがないが、このあたりで一区切りをつけてもいいのではないかと思った。
とはいえ1日に1冊程度は時間の許す範囲で読んでいけたらと思う。(ここ3か月弱で記録しただけで600冊超の本を読んでいるので単純計算で1日8冊程度読んでいたことになる。もっとも、読み方にも読んでいる本の質にも大分ムラがあってあまり意味のない数字だが)

一応今考えていることとして、
1.〇〇〇〇を通じて知識のいまいちどの体系化を図る
2.〇〇〇講座などを利用して語学を勉強し直す
3.規則正しい生活や運動、食事を通じて健康を心掛ける
4.〇〇〇〇を見据えて準備する

とりあえずはこんな感じで考えている。充実した日々を過ごせますように・・・

(追記)
○○に当てはまることは一応、想定して書いていたわけだけど、既に何を想定していたのか一部曖昧になりつつあるので、ここに記しておこうと思います。
なお、当時の予定であって、今はそれも想定しつつもすべてそのまま考えているわけではないです。
1→放送大学 2→NHK(ゴガク) 4→受験勉強
4に関しては、大学院というよりは当時は大学の他学部を受験することを想定していました。
いまは50・50程度。年齢、時間、お金、等々考え出すと色々な課題があって答えが出ないしだんだんと暗くなってきてしまいかねないのでとりあえず結論は棚上げして準備を進めている感じです。
たぶん最終的にも、併願して合格したものの中から選択するといった感じになるかと思います。
自己決定を重視する立場からは責任放棄と映るかもしれませんが(そもそもそんなツッコミを入れる人がいるのか、というツッコミは聞かなかったことにして)人生というのはそんなに自分の決定によってばかり決まらないというのが経験的な把握です。
なので応接としては、仰る通りだと思いますが私は自己決定の至高性を無邪気に信じられるほど優れた人物でも愚かな人物でもないようです、といったところになるかと思います。(本当に、誰に向けて言い訳してるんだろう。いや、でも割と何人も、そういうことを素面で言ってきそうな偉い人が身近にいた時期があったので…)

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