2017年2月26日日曜日

言葉と社会

言葉に自覚的でありたいと思う。
言葉の正確性にはそれなりにこだわっているつもりだし、文体や言葉選びにも自分なりに可能な範囲で気を遣っている。
それでも自分の意図や気持ちを正確に描写することはできないし、自然や事象を写実的に記述することも難しい。
そういうもどかしさを以前書いたような気がする。(途中から話が逸れていくのはいつものことだが)

ただ、言葉が歪であることに救われている部分が大きいことも認めなければならない。
ひとはひとりとして、同じ感性、同じ信念、同じ論理の癖を持っている者はいない。
にもかかわらずどうにか社会生活、家族生活、友人関係を取り結べている、人を自分と同じないしは似た存在として信頼・受容することが出来ているのは、言葉が不確かなものだからだろう。
伝えたいことがすべてダイレクトに頭や心、魂にたたきつけられる道具があったとしたら、人々はこんなに他人を信頼することは出来ない。
その意味で、不自由な言語は人々が適度な社会生活を送る上で不可欠の存在だった、というよりも、こうした不自由な言語に基づいて人々は社会を築き上げたと言うべきなのだろう。

機械という本質的に言語を人間と共有しないものの存在感が増す中、ひとの社会が新しい変化に直面し、人々が対応を迫られるというのは、半ば必然として我々21世紀人に襲い掛かってくる時代状況なのだろう。
漠然とした不安とともに再び例の問いかけが頭を擡げる。
果たして科学は我々にとって悪魔の影を負った天使なのか天使の顔を持った悪魔なのか。
全ては運用する人次第というおためごかしから訣別して、科学者自身が、そして利益を享受するすべての人々が科学・機械文明の正負両面に関して真剣に考えるべき局面を迎えている。

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