2017年2月28日火曜日

寛容?

寛容を説く人が多い。
私も寛容であることに意義を覚えるひとりではある。
しかし、寛容とはいったい何なのか。
無限の寛容はただの野放図と何も変わらない。
何を赦し、何を限界点とするのか。
それは結局のところ、寛容という言葉、概念からは何も見えてこない気がする。

多様性を尊重するというお題目についても同じだ。
というか寛容と多様性の尊重はほぼ同義語として用いられているように思う。
多様性を尊重することは生活していくうえで、今の時代において確かに不可欠のことだろうと思う。
けれど、多様性を尊重することを人に強いるとき、それは既に寛容の精神を失っており、多様性を尊重できない人という多様性を認めないという点で自己矛盾を孕んでいる。

私は何も、寛容という言葉、多様性の尊重という題目そのものを絶対的に信奉しているからこういうことを言っているわけではない。
単なることば遊びの一種であり、揚げ足取りをしているに過ぎない。
けれど、なぜそういうことを言うかと言えば、寛容や多様性の尊重を謳う人々が中途半端に、意識的にか無意識にか言葉の都合のいい面ばかりを押し出して反対する人々を攻撃する様に反発を感じるからだ。
言葉を武器として使うのであれば、言葉の持つそのままの意味で、自分に都合の悪い側面もすべて含めて使ってほしい。
言葉は武器ではなく、人々の思いやあり方を人々に寄り添って記述する友である。
友を身勝手に振り回す人々のことをどうしても認めるわけにはいかない。
そんな義憤にも似た感情がむくむくと頭を擡げてくるほど、今の時代の言論空間はすっかりと乱れてしまっているように見える。

寛容というのは、先にも述べたがそれをどこまでつき進めていくかが重要となる。
行きつくところまで行ってしまえば、犯罪者も人殺しも好き放題の世の中になってしまうし、文化やことばも伝統を守ることがかなわなくなってしまうようなラディカルな立場にもなりうる。
勿論多くの人が言う寛容にそのような含意はないだろう。
けれど、何となく正しそうなことばを絶対的に正しいことばとして使用していけば、行きつくところはどうなるかわからない。
何となく正しそうなことばはなんとなく正しいものとして使うべきで、絶対的に正しいものとして扱ってはならない。


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